品川巡検
2010年9月19日によもぎ会・地歴部合同の巡検「品川」を実施しました。
今回は品川を訪ねるということで、大森貝塚、大森貝墟、品川歴史館、鈴が森刑場跡などの大森・立会川付近、東海時、海雲寺、天妙国寺、海徳寺、荏原神社、品川神社、東海寺とその関連墓所などの南北品川宿付近を見学しました。
こちらは大田区にある物で、品川区の大森貝塚の一部という感じです。ここには日本考古学発祥の地との碑があります。近くに品川区の大森貝塚もあります。
これらは日本で始めて考古学の調査を行ったモース博士ゆかりの地です。博士は動物学研究者で貝塚発掘経験もありました。来日してすぐに横浜〜新橋間の日本で初めて敷かれたあの汽車の車窓から貝塚を発見しました。そして後日ここを掘ってみたのが日本考古学の始まりなのです。
大森貝塚遺跡庭園はモース博士が1877年に貝塚を掘ったところであり、貝塚の断面を見ることができます。地面の一部を掘って上から見えるようにしてあり、上から断面を観察しました。やはり多くの海水の貝を見ることができました。みたことのある貝も無い貝もありました。残念ながら私は土器は見えませんでしたが、多く出土しています。
特集1
モース博士
エドワード・シルヴェスター・モース博士(1838〜1925)はアメリカの動物学の研究者で、シャミセンガイの研究のため来日しますが、来日して3日目の1877年6月19日に新橋〜横浜間の汽車の窓から大森貝塚を発見します。秋には早速発掘を教師である東京帝国大学の学生と始め、多くの貝、土器、人骨、石器等を発見しました。この発掘は日本の考古学の夜明けとして知られています。また、博士は日本各地で発掘を行ったり欧米の進化論などを紹介するなど、日本の学問の発展に貢献した上、祖国では収集した物と経験を元に日本文化について紹介しました。
特集2
大森貝塚
貝塚が古代のゴミ捨て場のようなものであることはご存知だと思います。ここは縄文後期(3000〜3500年前)の貝塚で、多くの貝殻、人骨、石器などが出土しています。貝殻については、濃度の薄い海水にすむ牡蠣などの二枚貝や巻貝が多く出土しています。これらは縄文人の食べたものが捨てられたので地層の中に多くが確認できます。また、貝のカルシウムのおかげで土壌はアルカリ性になり他のものが酸でとけることが少なく、良好な保存状態の維持に役立っています。
人骨はいろいろ出土していますが、貝の作ったアルカリ性の土壌のおかげで保存状態は良好です。中でも、明治時代に目を引いたのは鋭利な刃物でつけたような傷のある人骨です。当時、モース博士は縄文人(当時はアイヌと一致すると思われた)は食人をしていたと報告しましたが、後に否定されました。
土器は区分が加曽利B式土器とされるもので、上記の通り3000〜3500年前のものです。破片などが多く出土し、後で行く資料館では縄目文様や指で作ったヘリなどが確認できました。
石器は打製の石斧や骨角器が出土しています。これも資料館にありました。
1985年開館の元財閥の屋敷跡に立てた品川区の郷土史館です。全体的に小学生でも分かるような分かりやすい展示ながら出土した土器や江戸時代のものなど資料が充実し大人でもたのしめます。また、付属の庭園には昭和初期の茶室や水琴窟があり、和の雰囲気を楽しめるのではないでしょうか。
特集
品川の海岸線
品川区の湾岸部は多くが埋立地です。江戸時代はそこまで埋め立てられず、たとえば旧東海道は現在は内陸(たとえば南品川1丁目のある交差点から670メートル)の道ですが、本来は海岸線を走る道でした。
戦前から急速に埋め立てが進み、たとえば1925年から1931年にかけて行われた目黒川の流路変更工事は大きな意味を持ちます。これによって水害から町は守られましたが、南北品川の境である目黒川が南に移ったことで、南品川総鎮守の荏原神社が川の北岸(北品川)にあるという奇妙な状態のまま現在に至っています。このときの流路変更工事は目黒川の流路変更に伴い大規模な埋め立てが行われ現在の東品川1〜4丁目が形成されました。
そのほかにも現在の品川火力発電所などのある東品川5丁目などで戦後大規模な埋め立てが行われています。たった80年程前には現在の主力地帯である東品川がなかったことは驚きです。祖父の親は山から土をもってくるのを手伝っただかみただかしたそうです。昔は湾内でのりの養殖を行い船の並ぶ港だったのが数十年の埋め立てで大規模な陸地になりました。埋立地には現在品川シーサイドや天王洲アイルなど大規模商業施設が多く、品川区の発展を支えているといえるでしょう。
・鈴が森刑場
1651年開設の刑場です。江戸には2つの刑場があり、北の小塚原刑場、南の鈴が森刑場という構造で江戸時代機能していました。東海道沿いであり、交通の便がいいところです。史跡としては小規模ですが、磔台の礎石と火あぶりのとき罪人を縛るくいの礎石がありました。実際に使われていたものなのでここで罪人とはいえ人間が苦しんで死んだことは恐怖です。そばには供養塔も立っています。
特集1
八百屋お七
八百屋お七といえば放火をした挙句逮捕・火あぶりの女として知られていますが、火あぶりになったのはこの鈴が森刑場です。
彼女は天和の大火のとき逃げ込んだ寺の小姓と恋に落ち、その後会えなくなるも彼に会いたくてもう一度火事を起こそうとして放火未遂で逮捕されました。お七が大火を起こしたのではないんですね。彼女は現在の数え方だと16歳で、子供の犯行を哀れんだ奉行は、お七に年齢をを死刑が禁じられている15歳だといわせようとしましたが、お七はあえて正直に16歳だといって火あぶりになりました。このようなドラマチックな話は講談や小説の題材となり、現在のお七像の形成につながっています。
・涙橋
立会川の旧東海道との交点にある橋です。江戸時代からこのあたりには涙橋という橋がありました。この語源はここが死刑囚と家族の最期の別れの地であったため家族・知人は泣きながら橋の反対で死刑囚をあの世へ見送り、死刑囚はこの橋を渡ります。現在は普通の橋ですが、旧東海道にあり、路幅が若干狭いところにあります。
・特集
涙橋の語源の話をしたので今度は立会川の話です。この立会川というのは駅名でも地名でも川の名前でもありますが、語源はよく分かっていません。
たとえば、「立会い」川。これは死刑囚と見送る家族の最後の「立会い」の境であるというものです。ですが鈴が森刑場の開設は17世紀なのでそれ以前は別の名前があるはずですが、それが分かっていないので怪しいです。
次に、中延の滝間(たきあい)という地を流れていたので滝間川(たきあいがわ)と呼ばれ、それが現在の立会川に変わったというもの。否定要素はありませんが確定要素もありません。
次に、昔、川を挟んで小競り合いがあったので「太刀会川」としたというもの。これも否定はできませんが小競り合いは記録に残りにくいので確定要素はありません。
最後に「太刀洗い」川。処刑の太刀を洗うかららしい(地元の人説)です。これも刑場設置前の名前が問題になるので怪しいです。
このように書きましたが、残念ながら小競り合いや音の変化など確定要素になりにくいものが根拠のため分からないでしょうね。
青物横丁駅から旧東海道を南下すると道沿いに大仏(といってもそこまで大きくないのですが)が見えます。ここは、品川寺。「しながわでら」とは読まず、「ほんせんじ」です。ここは9世紀はじめのできた寺本体より、江戸六地蔵の大仏と19世紀半ばにパリ万博(1867年)に出品された梵鐘が有名です。これらはあとで詳しく書きます。また、ここは東海七福神の一つに指定されていて、本尊は観世音菩薩ながら毘沙門天の寺として指定されています。9月4週には観音大祭が行われ、護摩焚きや火渡りを行います。僧侶が焚き火の上を歩く(荒行)のは多くの観衆を呼ぶイベントになっています。筆者自身何回か見に行ったことがあります。また、変わったところでは、出陣学徒や戦犯、軍用の動物も祭っています。
梵鐘というのは、同じ仏教でも中国・朝鮮半島・日本列島で様式(主に上の吊り下げ部分の形)が違い、品川寺の梵鐘は一般的な日本風の梵鐘です。
特集1
江戸六地蔵
江戸六地蔵とは、江戸の入口、つまり町の端の街道沿いの寺に、昔地蔵に祈り病が治った僧侶が荒行で寄付を募って立てた6つの地蔵です。6つの街道の入口に立てられた地蔵の中には小さな6体(六道の人々を導くという意味がある)の地蔵が入れられ、街道を通る人の安全祈願に使われたのです。
品川寺の地蔵はそのなかでも第一番と書かれていて、1708年建立の6体の中で最も古いものです。
6地蔵の立てられた寺院は以下の通りです。
東海道・・・品川寺(宝永5)
奥州街道・・・東禅寺(宝永7)
甲州街道・・・太宗寺(正徳2)
中仙道・・・真性寺(正徳4)
水戸街道・・・霊厳寺(享保2)
千葉街道・・・永代寺(享保5)この地蔵は廃仏毀釈で破壊され、現存しません。
特集2
品川寺梵鐘とジュネーブ
青物横丁駅の前にジュネーブ平和通というものを見つけられたでしょうか。なぜ極東にジュネーブという名を冠する道があるかというと、品川区とジュネーブ市は友好都市だからです。これには品川寺の梵鐘がかかわっています。
この梵鐘は1657年に徳川家綱が寄進したとされ、日本文化の代表の一つとして、1867年のパリ万博、1871年のウィーン万博に出品されました。しかし、その後所在不明になりやっと見つかったのが1919年で、住職がジュネーブの美術館に梵鐘が展示されていることを突き止め、変換交渉に外務省が乗り出して返還にいたりました。これがきっかけで品川区とジュネーブ市に縁ができて友好都市になりました。
品川寺からさらに南下したところにあるこの寺は、人々に「荒神様」として祀られる千躰荒神王を祀っています。荒神王というのは台所の神ですが、ここは寺なのです。本堂の中には27個の扁額があり、すべて信徒の奉納物です。なかでも、1861年作のものはガラスの上に彩色しためずらしい扁額となっています。祭礼の際は本堂で今回入ったところより奥のところまでいけて護摩炊きをしています。
特集
荒神様信仰
この地域の家庭では台所に荒神様の御札を台所に貼っている場合が多いと思います。また、祭りの際には多くの人(遠いところからも)が海雲寺に行き御札を受けに行きます。このように、荒神様は台所の神として地域に根付いているといえるでしょう。
今度は戻って東海道を北上すると、天妙国寺に到着します。ここは現在は古い建物がないものの、江戸時代は多くの伽藍や五重塔が名物の大きな寺でした。前述の資料館で絵図を見ることができました。また、2009年に五重塔の礎石が発見されました。この塔は1702年の大火で消失しましたが、今回の巡検では出土した礎石を確認しました。この寺は他にみるものは特にないですが、年末の除夜の鐘や夏の盆踊りでは人が殺到してとても混雑します。
特集
天妙国寺五重塔
15世紀半ば建立のこの塔は1702年に焼けてから再建されていません。そして、去年ついにその礎石が見つかりました。残念ながら礎石は後世に移動されていて塔の正確な位置は不明のままです。礎石は3つで、1つだけは花崗岩です。この花崗岩(一番硬い)の礎石が中心と思われます。どれもみな柱をはめると思われるくぼみが中心に開いています。また、横には石を切るときにつける切り取り線のようなくぼみが多くみられました。
東海道をさらに北上すると南品川に到着します。ここでいったん旧東海道を外れ、細い道へ進みます。すると海徳寺なるものが見えるはずです。ここは軍艦千歳の殉難者の碑があります。中くらいの石碑と謎の大砲が1門あいてあります。大砲の命を解読しようと試みましたが劣化していて無理でした。また、ここは日蓮宗なので日蓮生誕何年という記念碑があったりもします。
特集
軍艦千歳
軍艦千歳は1906年にアメリカの植民300年記念観艦式に参加するために物資や人員の補給のために品川沖に停泊していました。品川沖というのは戊辰戦争で榎本艦隊が北上するのに出航したところであるなど、海軍がよく使う海域でした。しかしながら、1906年は品川はまだ埋め立てが進んでいない(目黒川の流路変更で東品川が作られるのはまだ後)ので、大きな港ではない砂浜もある、のりの養殖が盛んな海岸でした。なので軍艦が接岸できるはずはなく、軍艦がやってくるときは、小船で軍艦と陸地を連絡していました。
1906年の事故当時、品川沖に高波がきたので軍艦千歳との連絡線の小船が転覆し、乗員83人が死亡し、ここで殉難者として供養されています。ちなみに、軍艦千歳は高波の被害を受けず、無事にアメリカへ行き、ヨーロッパを回り世界一周をして帰国しました。
南品川をずっと進むと、目黒川に出ます。目黒川は昔は南・北品川の境界でしたが、1928年の流路変更で川が大幅に南に移動し、南品川総鎮守が住所上は北品川、つまり川の北になってしまいました。現在は目黒川の北岸に存在し、橋を渡って境内に入ります。この橋は劣化していてみこしも車両も通れずとまってはいけないというような高札が立っていましたが、詳しくはいいませんがいろいろあります。ここは702年創建の古い神社で、歴代将軍が参拝したり寄進するなど徳川家ゆかりの神社で、近代では明治天皇もお立ち寄りになっています。
特集
目黒川
江戸最南端の品川宿を南品川・北品川に分けていたこの川は、現在こそ護岸工事が済み大雨のとき水位上昇のサイレンがなるだけですみますが、大規模な改修まではまで名高い暴れ川でした。もともとは北を流れる川で、流路変更工事が1930年ごろに行われたことについては前述しましたが、そのごも氾濫を続けていました。昔は台風のニュースでよく出ていたそうですし、家が何件も流れていくのを祖父は見たらしいです。これがやっと収まるのは1980年代の大規模改修です。このときは川を掘りなおし、かなり深くして許容水量を大幅に上げました。また、このときに護岸工事をして、現在のコンクリートの岸になったのです。これによって東京有数の暴れ川はなんとか押さえられました。
徳川家光が寵愛した沢庵和尚(沢庵付けの発明者にして紫衣事件の流罪者)のために幕府の品川御殿のそばに作った寺です。ここは昔はとても広い寺で、いまも付近の飛び地に墓地をいくつも持っています。幕府に近い有名な寺だけあって有名人の墓もあります。今回は墓をメインにまわりました。
一つ目は目黒川と第一京浜の交差点そばの細川家墓所。(写真)東海寺ではないですが、おなじく沢庵が開祖の寺の墓です。ここに眠るのは熊本藩の細川家です。現在は個人宅の敷地内にあり、見学は許可制です。入らせていただくと、目の前に森とたくさんの五輪塔や墓が現れました。みな細川家関係です。この五輪塔というのは5つの輪が重なって塔になったようなのでこのような名前ですが、都内ではあまり見かけません。ですが、ここには50もの五輪塔が立っていて珍しいものとなっています。
2つ目は大山墓地です。ここには沢庵(仏教のほか医学や兵学にも歌・書・茶などにも通じる)、賀茂真淵(国学)、渋川春海(暦学・天文学)、本居内遠(国学)など有名な学者の墓がたくさんあります。また、新しいところで言えば日本鉄道の父といわれる初代鉄道庁長官井上勝(小岩井農場の出資者の一人でもある)の墓があります。
特集
品川御殿
先ほど、家光が品川御殿のそばにこの寺を立てたといいましたが、品川御殿とは何でしょうか。これは現在の「御殿山(江戸時代の花見の名所)」に立っていた物で、将軍が鷹狩りや茶会など行事で使う、御殿と呼ばれる別邸の1つでした。家光は品川御殿を好み、普通の会議や行事をここで行うこともありました。しかしながら、1702年の火事で御殿は焼け、二度と再建されませんでした。しかしながら、今でも「御殿山」として地名に存在を残しているのです。
新馬場駅北口付近の急な階段が目印の、1187年に源頼朝が安房から洲崎明神の天比里乃当スを迎えて立てた神社です。
品川湊の神社だけあり、海の神を祭りました。その後、宇賀之売命、素戔嗚尊が追加して迎えられています。北品川の鎮守として栄えたこの神社は徳川家とゆかりがあり、宝物庫には徳川家康奉納の神輿や勝海舟奉納の額などがあります。
また、ここの富士塚は品川富士といわれ、江戸時代に「富士講」の人々の寄進で作られたいわゆる「ミニ富士山」です。氏子の持ってきた富士山の石を壁面に並べて作り、ここに登ると富士山に行った事になるとして、多くの人が上りました。江戸時代の民衆の信仰の一部を理解するのに重要な資料であり、見晴らしもよいです。また、境内の外ですが隣接地に板垣退助とその一族の墓があります。写真は別のとき撮ったもの。
板垣一族の墓が神社の敷地の外に並んでいて、彼についての佐藤栄作が書いた
石碑が1つあります。
特集1
品川宿と祭り
南品川・北品川では総鎮守の荏原神社・品川神社を中心として祭りを行います。どちらも6月に祭礼を行い、数年前は1度合同開催しました。そのときは町会ごとにお祭好きの地元の人や担ぎ手が太鼓や笛を神輿に合わせて町を練り歩き、屋台もたくさん出てとても盛り上がります。このとき、南品川の荏原神社は伝統の行事である、みこしを担いだまま海に入る行事をします。いつもお台場に行きみこしを胸まで使ってで担ぐのです。また、北品川の品川神社では、急で長い表の階段を何個もの神輿がどんどん上がっていきます。こちらは遠くから見ても近くでみても迫力があります。
このように祭りの盛んな品川宿ではこの期間盛り上がると同時に、他のときでも観光客を呼べるように最近北品川の観光地化(案内所の設置、看板をレトロな感じにするなど、歩道の石畳化など)を進めています。
もともとは品川宿に滞在する大名用の宿泊所でしたが、明治になって天皇の1度目の東京行幸の際宿泊地として利用されました。また、2回目の東京訪問、つまり「遷都」のさいにもここに一泊するなど明治天皇とのかかわりがありました。そのため、皇紀2600年記念行事の明治天皇ゆかりの地である「聖跡」の選定において聖跡と認定され、現在の聖跡公園となったいます。
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