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其の六:日露戦争後の世界

日露戦争までの歴史を見終わったが、果たして、日露戦争は、主にヨーロッパの長い19世紀から見て、どのような役割を果たし、どのような変化を表していたのであろうか。

前者に関して、よく言われるのは、日露戦争は第一次世界大戦を起こす引き金になったということである。確かに日露戦争によってロシアの南下政策は終わりを告げ、イギリスとロシアの極東での対立は終わり、イギリスとロシアが接近して三国協商が成立するきっかけとなったのは確かであろう。しかし、第一次世界大戦の発生過程を見るとそうであるとも考えられないであろう。

第一次世界大戦の発生自体は、セルビアのテロ組織「黒い手」のプリンツィプによってオーストリアのフランツ=フェルディナンドが殺されたサラエヴォ事件によるものであり、バルカン半島のパンスラヴ主義、ユーゴスラヴィア主義と、オーストリアのバルカン伸張がぶつかった結果起きたものである。この事件自体はセルビア人によるものであり、日露戦争は関係ない。この後世界大戦に拡大するまでは、

・オーストリアによる受け入れ不可能な最後通牒

・イギリスの参戦

がある。前者に関してだが、オーストリアはセルビアが受け入れ不可能になるように文章を変えていることから、セルビアと戦争することは覚悟しての事であり、さらにその背後にパンスラヴ主義を進めるロシアがいるのも理解していることから、ロシアと戦争状態になることは覚悟の上であると思われる。そしてその覚悟が出来た理由としては、まず同盟国としてドイツが存在したことが挙げられるが、もう一つ、日露戦争によってロシアが弱体化したと考えたため、ロシアと戦争状態になっても問題ないと考えたことが挙げられる。これは確かであるが、ロシアと交戦状態に入る以上、今回はドイツと敵対関係にあるイギリスに束縛されることのないフランスが参戦することは確実であり、それも覚悟していたと考えられる。フランスとロシアによる挟み撃ち状態に自ら進んでいった理由としては、ドイツがシュリーフェンプランによってフランスをロシアが軍隊を動員する前に片付けられると踏んだからである。しかし一方で、ドイツはウィリーとニッキーの電報に見られるようにロシアとの間に戦争を起こさないような努力を行っている。少なくとも、日露戦争が起こったことによって、オーストリアがセルビアへ48時間以内全て承諾を求める最後通牒を送ったとは考えられない。恐らく日露戦争が起こらなかったとしても最後通牒は送られていたであろう。

では次は後者であるが、イギリスのドイツに対する宣戦布告の理由はシュリーフェンプランによってドイツが中立国ベルギーに宣戦布告したことが原因であり、1904年に英仏協商を、1907年には英露協商を結んでいたが、ロシア、フランスがドイツと交戦状態に入ったことが原因ではない。確かにイギリスはロシアと接近したことによって参戦しやすくなったと考えられるが、既にドイツ、フランス、ロシア、オーストリアといった欧州主要国を巻き込み、さらに新興国ドイツに対し驚異を覚え、モロッコ事件に見られるように、持たざる国のドイツがアフリカで植民地を持つイギリス、フランスから植民地を奪う姿勢を見せた以上、例え日露戦争が起こっていなかったとしても、イギリスは世界大戦に参戦したであろう。

このように考えると、日露戦争は第一次世界大戦に、日英同盟に基づき日本が参戦したこと以外は、全く影響を与えていない、または少ない影響しか与えていないように考えられるのである。第一次世界大戦が、

・パンゲルマンとパンスラヴ

・植民地を持つ国と持たざる国の対立

・欧州の民族問題

・ヨーロッパのヘゲモニー

が原因であった事を考えると、当然であったかもしれない。とにかく、日露戦争が第一次世界大戦を引き起こしたというのは日本中心な考え方であり、無理があると言えるだろう。

日露戦争は第一次世界大戦において起こった、総力戦を表した戦争であるという考え方がある。では第一次世界大戦の戦争の特徴と日露戦争とのを比較してみよう。

第一次世界大戦は、ヨーロッパでは普仏戦争以来の戦争であったため、ヨーロッパ人民は、戦争はこれまでと同じように短期決戦でクリスマスまでには終了すると考えていたが、シュリーフェンプランは失敗し、ロシアの侵攻はタンネンベルクの戦いで破るものの予想より早くロシア軍が集結し、戦争は長期化した。その原因は、同盟国と協商国が思ったより国力のバランスが取れていたこともあるが、軍事上の関係もある。

・機関銃による攻撃力の増加

・塹壕、要塞による防御力の増加

が主な原因である。タンク、毒ガス、飛行機などは導入段階であり、まだ関係ない。この、攻撃力増加も防御力増加も結果的に防御側に有利に働いたのである。塹壕が戦線に長く、作られることによって、攻撃側は突破しづらくなり、機関銃の威力によって攻撃側は死者を大きく増やす。その間に塹壕に縦深ができることによって、大砲も届かなくなり、数キロの前進のために、50万人の死者を出すような戦いが起きたのである。

兵員の消耗が激しかったということは次から次へと兵を補充する必要に迫られることになり、初期の兵はつき、国家が国力の全てを使い戦争に打ち込む総力戦が始まった。

日露戦争においては、日本は国力の全てを使い戦争を行ったと言えるだろう。しかし、ロシア側は日本との国力を考え、全力は出しておらず、最終的に庶民の不満が爆発したが、総力戦とは言えないであろう。死傷者の面においても、第一次世界大戦は一回の戦闘での戦死率も日露戦争とは比較にならないほど多い。さらに、日本は攻勢限界点で講和を行っており、クラウゼヴィッツの理論はまだ生きていたと言えるだろう。しかし、旅順要塞攻略戦に見られるように、攻撃側圧倒的不利な戦闘は見られた。日露戦争は戦争が無かったヨーロッパの代わりに、これからの戦争方法の一端を示していたのである。

結果的に、日清、日露戦争は国際的な観点から見て、どのような変化を表していたのであろうか。

日清戦争は、華夷秩序の完全な崩壊、つまりここでいう東洋の喪失と捉えられるが、同時に、東洋から西洋へと変化した過程で、新しい西洋化した東洋の覇権国家を決める戦いでもあった。

日露戦争は、アジアの国がヨーロッパを破った戦いと考える割には、ロシアはヨーロッパの国と比べて一段劣っていることを考えると、日露戦争は、極東における、ロシアの南下政策とそれに対抗する各国の戦争であったと位置づけるのが良いであろう。また、日露戦争によって南下政策によって清北部に大きな影響力を持っていたロシアが日本に変わる事になり、清を巡る争いに日本も参加することになり、さらにその後、日本の勢力拡大を恐れたイギリスや、満州に勢力を拡大できなかったアメリカとの対立が起こることとなる。また、第一次世界大戦と日露戦争の関係は、先述したように関係しているように見えるだけであり、実際の影響はかなり少ないものであったと言えるだろう。

それでは、最後にこの展示の主要な三ヶ国のその後について載せて、第一次世界大戦について述べて終わりとしよう。


ロシア

先述したとおり、ロシアでは日露戦争の事実上の敗北によって、民衆や他民族の不満は爆発し、各地で蜂起が発生していた。

そんな中、ニコライ二世は未だに改革を行えずにいて、そんなニコライ二世に対し、ポーツマス条約の外交全権であったウィッテは、このような蜂起を、武力で抑えるか、または改革を行って民衆に寄るかの二択しかないとして迫り、ニコライ二世は前者に傾いたり、国家評議会を少し改造することで切り抜けようとしたりしたものの、結果的にウィッテは二者択一を迫り、最終的にニコライ二世は後者を選び、十月詔書によって、

・言論、集会、結社の自由

・諸階級の選挙参加

などが決められた。これによってフィンランドなどでも憲法が変えられ、新しい内閣は皇帝に責任を負う形で、ウィッテによって組閣された。これによって蜂起は一度収まったが、選挙に際しては、自由主義者は参加したものの、社会主義者たちは一票の重みが、労働者と貴族では45倍も違うことを不満に思い、参加しなかった。

皇帝が独自の権力をふるったため、ウィッテは辞任し、首相はゴレムイキン、ストルイピンへと変化し、このストルイピンの時代に、彼は改革を行おうとしたが、アナーキストによって暗殺され、この頃からニコライ二世は国会ではなく、息子の命を救ったと思ったラスプーチンを信頼し、ロシアの民主化の動きは完全に止まり、第一次世界大戦によってロシアは世界で初めての社会主義国家へと生まれ変わる。


清において清政府が上からの改革によって改革を行うことが不可能となってしまったため、下からの、漢民族による改革によって中国を近代化させようという動きが生まれてきた。その代表者が孫文であり、様々な中国の会派を糾合して、中国同盟会を結成し、革命を行おうとした。彼は、亡命中は日本に立ち寄っており、彼は日本の影響を大きく受けていると言えるだろう。さらに、日本の意図がどこにあったとしても、日清戦争によって中国の国民が改革意識を強く持ち始めたのは確かで、日清戦争はそのような意味もある戦争であったと言えるだろう。1911年に武昌蜂起が起きたのを始まりとして、中国中で住民の蜂起が発生し、南部を支配して中華民国を建国した。しかし、朝鮮での戦いなどで活躍した袁世凱将軍率いる清軍には勝つことが出来ず、孫文はそこで譲歩して、総統の座を袁世凱に渡す代わりに、彼に清を裏切らせた。彼は皇帝になるという野望を持っていて、この革命は、流血が起きたが制度的には支配者が満州族から袁世凱に変わったのみという結果になり、日本の初期の明治維新と同じ状況になった。孫文らは広州に逃げて、そこに拠点をおいて、袁世凱に抵抗するが、中国を統一することができなかった。袁世凱の死亡後は、段祺瑞を初めとして、各地に軍閥が作られ、中国は指導者がいないままとなってしまった。


日本

日本では、日露戦争の勝利によって、国民と政府は日本がヨーロッパと対等な国として成長したと考え、さらに、ロシアから優越権を奪い取った朝鮮に対して進出していった。第一次日韓協約によって財政顧問、外交顧問を送り込み、第二次日韓協約によって外交権を剥奪した。この後1908年に高宗が列強に日本の行動を訴えるハーグ密使事件を起こしたが、同盟国イギリスはともかく、アメリカも桂・タフト協定で韓国とフィリピンの支配関係を確認しており、むしろ日本による韓国併合を早めることとなってしまった。第三次日韓協約によって、内政権も日本に剥奪され、1910年に、韓国はついに日本に併合された。

このような「快挙」に国民が沸く一方で、内村鑑三などのように、日露戦争などに反対し、日本の朝鮮進出を不当だとする人たちが生まれたのも事実である。結局、日本は欧米と並んで少し違う道を辿って帝国主義国家になり、第一次世界大戦に巻き込まれていくことになる。


第一次世界大戦

第一次世界大戦が発生する経緯は先述したが、最終的に、同盟国はドイツ、オーストリア、オスマン帝国、協商国はイギリス、フランス、ロシア、イタリア、日本となり、世界各地の植民地でも戦いが繰り広げられ、植民地兵も動員されたため、後世からは第一次世界大戦と呼称されるようになる。

この戦争は帝国主義国家同士の戦争であり、ロシアもそのような国の一つであった。ロシアは早期からタンネンベルクの戦いを起こすなどしてドイツの作戦を根本から覆し、その後も主にオーストリアに対するブルシーロフ攻勢などの攻撃によって西部戦線の圧力を減らし、協商国を助けていた。しかし、日露戦争、第一次世界大戦と続き、ニコライ二世がまた皇帝専制へと戻そうとしたことによって、労働者を中心として蜂起し、ドイツが東部戦線処理のためレーニンをロシアに帰国させ、ロシアでボリシェヴィキ革命が発生し、ドイツとブレスト=リトフスク条約を締結して講和した。単独離脱に協商国は反発し、帝国海軍のコルチャークを使ってロシアに出兵したが、第一次世界対戦終了とともに撤退し、ロシアで社会主義国家が誕生した。

中国自体は、戦争には参戦していないが、戦争には巻き込まれている。日本が協商国として参戦したことにより、青島を日本が攻撃し、そのまま中国に返却しなかった。さらに、日本は中国に対華二十一ヶ条を突きつけ、袁世凱が受諾し、中国国内で反発が起きる。しかし結果的には先述したとおり中国は軍閥によって分割したままとなってしまう。

日本は、日英同盟に基づき、閣議決定なしで同盟国に宣戦布告を行っている。地中海や喜望峰などへの艦隊の派遣も行っているが、目的は、ドイツの中国利権と、南洋諸島であり、南洋諸島はヴェルサイユ講和条約で日本の信託統治領となるものの、対華二十一ヶ条は破棄させられ、さらに日本を支えてきた日英同盟も四カ国条約によって破棄させられる。つまりこれは中国に対して進出しようとしたアメリカやフランスがロシアの代わりに伸びてきた日本を警戒し、イギリスも同盟国でありながら同じく警戒した事による。これから日本はこれらの国との関係が悪化していくのである。

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