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其の五:日露戦争
ここから日露戦争の具体的な説明をしていこう。初めに、両方の軍備であるが、日露戦争が始まるまでの10年の間に海軍は六六艦隊計画(戦艦6隻・装甲艦6隻の建造計画)を推し進め、陸軍も兵力・装備(13もの歩兵師団と24万人の兵員)を充実させているものの、これは国民に臨時の税金を課すことになるほど財政を圧迫した。その一方でロシアは旅順艦隊のみで、日本の全艦隊に匹敵し、陸軍は常備で113万人に達していた。
さて、日清戦争と同じく彼我の勢力差を話そう
。日本は、年間歳入の割に兵力・装備ともに無理をしている。だが、日清戦争のときと比べると、日本が、清との戦争で消耗しているのにもかかわらず、わずか10年の間に恐ろしい成長を遂げているという事実が浮き彫りになっている。
さて、黄海における制海権を確保したいという思惑のある日本海軍は、ロシアと国交を断絶した2月6日に主力艦隊を佐世保から出港させた。そして2月8日には旅順港外に停泊していたロシアの軍艦へ魚雷攻撃を行っている。だが、これは敵艦3隻を損傷させるにとどまり、失敗のような形で終わっている。
一方、陸軍先遣部隊は、2月9日、敵前上陸の支援に成功させると、仁州港のロシア艦に挑戦状を送り、港外に出るよう迫った。そして出てきたロシア海軍に圧倒的戦力によって勝利した。一方、ロシア艦の艦長は降伏の不名誉を嫌い、自滅し、その戦いぶりと合わせ、賞賛を浴びた。
旅順艦隊に大打撃を与えられなかった日本は、商船を旅順港口に沈め、旅順港を閉塞する作戦を実行するものの、阻止され結果を残せずに終わった。ちなみに、この戦いにおいて日本最初の軍神、広瀬中佐が誕生した。
そんな中、朝鮮に上陸した黒木大将率いる第一軍は、順調に進軍を続けていた。そして、4月末、清国との国境にてロシア軍と退治する格好となった。(鴨緑江会戦)
当初、ロシアは日本軍の鴨緑江の渡河地点を下流の沙河鎮付近と想定していたため、そこに半分ほどの戦力を集中させ、残りは砲台のある九連城と上流の石頭城に分散して配置していた。それに対して日本側は、端のない鴨緑江を、鉄舟を用いて、上流を渡河していた十二師団の砲撃の援護のもと渡河した。そして、その猛攻によって渡河地点、九連城北のロシア軍は遁走。翌朝夜明けに十二センチ榴弾砲20門を投入し、激しい砲撃を行った。その結果、ロシア軍の反撃は沈静化し、日本軍は一日で鴨緑江を抜く形となった。この戦いは、国際社会において高橋是清らが行っている日本の外債募集を好転させる原因となり、戦争続行に大きな役割を果たした。
一方、奥大将率いる第二軍は遼東半島中ほどの金州・南山の攻略によって旅順の孤立を試みるが、それを察知していた旅順のコンドラチェンコ少将は司令官ステッセルに進言。南山を要塞化し、日本軍を迎え撃った。
大本営は要塞の堅固さを把握していたが、大本営は速攻を支持する。5月25日、ロシア軍は攻撃されるとあっさり主力の存在する南山に退却し、引き続いて南山に攻撃を加えるも、要塞は砲弾でも崩せず、歩兵は地雷と鉄条網からの機関銃掃射により多くの犠牲が生じ、その報告は大本営に「桁がひとつ違うのでは」と驚かせるものだった。やがて第四師団長小川中将による比較的手薄な敵左翼へ肉弾攻撃と、海軍による艦砲射撃により、26日夜には南山を占領し、ロシア軍は旅順へ撤退した。この戦闘で砲弾製造能力の不足のため、また砲弾消費の甘い予測のため砲弾が尽き、そして、近代的要塞でも肉弾戦により陥落させられるという誤った教訓を得てしまった。日本はこの後同盟国のイギリスから上質石炭と共に、砲弾も輸入することになった。この戦いは同盟国のイギリスなしでは行えない戦争であり、日本のいびつな工業化が明らかになってしまった。日本の日本軍は、南山が短期間でできた要塞であり、また海上よりの艦砲射撃があった点を留意すべきであった。この点は、旅順攻略作戦において多大な犠牲を出す一因となる。
南山を制圧、旅順を孤立させた第二軍は北進し、決戦地域と想定した遼陽を目指した。その途中においても、いくつかのロシア軍との戦闘があった。
5月30日に、第二軍は秋山好古率いる騎兵旅団に偵察を行わせていた。一方、ロシアは遼東で決戦をと考え大軍を集結させる満州軍総司令官クロパトキンに、極東提督アレクセーエフが反発。得利寺付近に自持ちの兵力を割き、集結させた。これにより、秋山騎兵隊は曲家店付近にて戦闘、敵の火力に全滅寸前まで追い込まれるが、6月3日に砲兵が合流。砲を持っていないと思い油断していたロシア軍を狙い撃ちして粉砕し、勝利した。
シタケリベルグ中将が得利寺付近に防御陣地を設営した情報を偵察によって知った奥大将は、北上の中止と敵の迎撃に重点を置いた作戦に変更しようとするが、大本営は攻撃を指示し、6月15日に第二軍は交戦。兵力では劣りつつも前方、左翼より連携して砲撃すると、ロシア軍は退却した。が、追撃がほとんどされなかったことにより、熊岳城にて再戦を余儀なくされた。こうして第三軍は徐々に北上していくが、大本営との意思疎通がうまくいっていなかったため、現地に問い合わせのような形で高等司令部を設置することにした。これは満州軍と呼ばれる組織で、6月20日に置かれ、総司令官は大山巌とし、総参謀長には児玉源太郎が就任した。満州軍の独断によって日露戦争は進行していくことになる。
さて、第二軍では弾薬・物資の補給などが滞っていた。一方、第一軍と大孤山より上陸した独立第十師団は敵を退けつつ進撃し、北上していた。そして、補給の問題を解決した第二軍もそれらに呼応して北進を再開。兵站輸送が滞りつつも7月19日に蓋平を制し、7月24日には満州軍総司令部の命により大石橋へ攻撃を行う。ロシア軍は強力な砲撃陣地を構築しており苦戦するものの、先の戦い同様に側面攻撃を仕掛けると、ロシア軍は包囲されるのを嫌い夜中に撤退したため、大石橋を占領した。
一方、8月10日、旅順に閉塞されていた旅順艦隊がロシア皇帝の勅命によりウラジオストクまで回港されることとなり、海戦が勃発する。黄海海戦である。
旅順艦隊出撃の報告はすぐさま旗艦三笠の東郷司令長官に伝えられ、すぐさま出撃した。実は旅順包囲中に敵の機雷にふれ、虎の子の戦艦初潮・八島が沈んでおり、代用として装甲巡洋船の春日などを加えていたものの、戦力の不足は否めなかった。さて、連合艦隊は旅順港の価値を喪失させるべく敵艦隊を誘うものの、ウラジオストクに逃げようとする敵司令長官ウィトゲフトは巧妙な操艦を行って連合艦隊を置き去りにする。だが、逃走中に旅順にて砲撃を受け、応急修理中であった船体が壊れ、浸水し、速力を落とし、連合艦隊は懸命の追跡を行い、敵艦隊を再発見。わずか五千メートルでの激しい打ち合いとなる。だが、三笠の一弾が司令塔に命中し、司令長官ウィトゲフトと幕僚、操舵員が戦死。ロシア側は混乱状態に陥り、その後も海戦は続くものの、日没とともに中止。旅順艦隊は大部分が逃げ戻ったため、連合艦隊は封鎖を続行せざるを得ず、第三軍も旅順攻略作戦を敢行しなければならなくなった。
一方、ウラジオストクにもロシア海軍による小艦隊が存在し、通商破壊を行っていた。輸送の安全を確保したい日本側は、第二艦隊をもって捜索させていたが、成果は上がらなかった。だが、黄海海戦の折、旅順艦隊を迎えるためにウラジオ艦隊が来る可能性があるとして、秋山真之参謀が第二艦隊に指示を与えていた。その読みどおり出港してきた敵艦隊と日本艦隊が遭遇。蔚山沖海戦が勃発する。
日本側は朝日を背にして攻撃を行い、敵艦3隻中、1隻を沈め2隻を大破させた。この戦いで沈没した敵艦リューリックの乗員を救助したことは国内外から高く評価される美談となった。そして、この海戦の勝利により、海上輸送の安全性はほぼ確保されることとなった。
一方、日露両軍が決戦の地と考えていた遼陽では、ロシア側により23万の兵力と堅固な要塞が築かれていた。
当初、日本軍は鞍站山を攻撃するが、ロシア軍は退いていたため、難なく占領。その後首山堡に攻撃をかけるものの、満州軍の児玉参謀長が敵の主陣を前哨陣と見誤り、あわてて予備隊を投入するも8月27日には全軍が崩壊の危機にさらされた。一方、秋山好古率いる騎兵旅団は半独立の支隊を歩・砲・工兵とともに編成し、北方の左翼深くまで侵攻。ロシア軍後方の遼陽停車場にあるクロパトキン司令部への砲撃をした。さらに、黒木大将率いる第一軍が4万の軍勢をもってロシア軍左翼の第一線防御陣地に夜襲をかけ占領した。この二つの動きに動揺したクロパトキンは、第一軍を過大に評価し、第二陣地にて進攻を食い止めようとする。が、黒木はそれの裏をかいて夜中に全軍をもって渡河しロシア軍の側面に回りこんだ。これに不意をつかれたクロパトキンは、圧倒的優勢であった首山堡の軍団を全て第一軍に向け、その結果、壊滅状態の第二・四軍は首山堡を攻略した。
一方、第一軍は9月1日、饅頭山・五鎮山を占領したものの、ロシア軍による猛攻を受け膠着状態となる。が、やがてクロパトキンは、機は逸したと考え、9月4日には撤退する。日本は消耗が激しいながらも勝利は手にした。しかし、これ以上の進撃は行えなかった。
そんな中、第三軍は着々と旅順要塞へ手を伸ばしていたのだが、乃木司令官は旅順要塞攻略の本来の目的である旅順艦隊の無力化という趣旨を理解しておらず、肉弾をもって、要塞へ強襲するという作戦を採択する。この作戦は敵の無数の保塁と通過するルートであったため、ロシア軍の集中砲火を浴び、結果8月19日から6日間で行われた第一回総攻撃は、計一万五千八百人が死傷。10月26日からの第二回総攻撃は塹壕坑道を使用する方法に切り替え、いくつかの敵陣を奪うが、被害の拡大により中止。大本営は危機感を抱き、要塞砲であった二十八センチ榴弾砲を第三軍に送るも有効活用されずにいた。さらに、この時期にやっと海軍の要望の二○三高地を攻撃するが、生半可な戦力投入で終わったため、かえって敵にこの地の存在価値を気づかせ、要塞化させてしまう。そして、11月26日、第三回総攻撃が行われる。新たに一個師団が追加され、二○三高地に白襷隊などの決死隊の突入なども含め、攻撃をかけるものの、要塞となっていたため犠牲者を増やすだけであった。こうした状況下、しびれを切らした満州軍総参謀長児玉源太郎が第三軍司令部に来着、砲の位置などの変更を行い、12月5日には二○三高地を占領。ここからの正確な射撃により、旅順艦隊は大破着底し、戦力から脱落する。さらに、12月15日、旅順要塞にて人望の高いコンドラチェンコ少将が戦死する。これらによって旅順要塞のステッセル司令官は、年が明けた1月2日に降伏。長い消耗戦に終止符が打たれた。これにより、封鎖を続けていた連合艦隊は佐世保に帰還でき、フジツボなどをおとし、各種の本格的修理を行うことができるようになった。これは、連合艦隊がベストコンディションで海戦を行えることを意味する。さて、この戦闘では乃木将軍の能力のなさが伺える。が、将兵の士気が激しく低下することもなく、彼は軍人というよりは人格者であっただろう。
さて、この二月ほど前の10月初頭、クロパトキンはロシア宮廷内で評価が失墜し、新たにグリッペンベルグ大将が赴任されることが決定される。彼はこの事実から自分がロシア軍全軍の指揮官であるうちに戦果を上げるため、奉天にいた軍を南下させ、日本軍と沙河会戦を起こす。クロパトキンは遼東会戦で日本軍が追撃を行わなかった理由を、兵力不足と補給の不備であると見抜いて南下したのが理由の一つにあることを付け加えておこう。
さて、日本軍は、第二軍で突出していた梅沢旅団が攻撃を受けて本渓へと撤退。だが、なおも猛攻を受けたため、第十二師団と騎兵第二旅団を援軍として送り込むも、苦戦が続く。一方、児玉は第一軍を主軸に据え、第二・四軍を動かしロシア軍を包囲する作戦ととる。10月12日、第二軍前浪子街を突破。第四軍も夜襲で三塊石山を攻撃する。そして、敵の主力を前面に受け止め苦戦していた第二軍も騎兵第二旅団の機関銃により活路を開く。さらに、13日に仁平大隊による陽城秦高地への白兵突撃を行い、占領すると、ロシア軍は再び退却した。
この戦いにおいては、日本軍の配置と戦術制のなさが伺える。まず、敵の二個師団にわずか一個支隊をあてたり、敵の後詰めが一個師団に対し、三個師団もあてたりしている。予備隊は突然の戦力投入の必要があるときには有効ではあるが、この戦いの後半では日本軍が優勢であり、ロシア軍に六万もの死傷者を出させたことから考えると、一支隊に荷重をかけた満州軍総参謀長の児玉の意図は不可解といわざるを得ない。
沙河会戦により、日本軍は深刻な砲弾不足、ロシア軍は兵力補充の必要性が生じた。両軍はこれらの事情により、三ヶ月間に渡って対峙した。1905年1月に、着任したグリッペングルグは日本軍の左翼の薄さに気づき、ここに大軍を投入して崩す作戦を立案する。クロパトキンもこれが成功した時点にて中央に攻撃をかけることを約束する。
1月25日、ロシア軍は行動を開始し、左翼を守る秋山支隊はそれを察知する。満州軍総司令部に報告するものの、児玉は厳冬期には軍隊は動かないという先入観により、その報告を見逃してしまう。グリッペンベルグは大軍をもって日本軍左翼の黒溝台を激しく攻撃し、総司令部は立見中将率いる第八師団を送るが、命令系統の不備および判断ミスから黒溝台を放棄することとなる。さらには26日に大台に進出した援軍の第八師団自身も敵に包囲されてしまう。一方で秋山支隊の沈旦堡も包囲され、集中攻撃を受け、陥落寸前となる。このように突然の奇襲において日本軍の左翼はそれぞれ分断されてしまい、孤立無援の状態にて各方面が崩壊寸前になっていた。総司令部が27日、あわてて第五師団、翌日に第二・三師団を送り込むと、秋山支隊の粘りや援軍の第八師団の奮闘によって、29日黒溝台を奪還する。日本軍はほぼすべての予備隊を左翼の援軍となしていたため、クロパトキンが強襲すれば日本の各戦線は崩壊する可能性があったが、クロパキトンは全軍を奉天へ退却させる。クロパトキンの退却命令に腹を立てたグリッペンベルグはロシア本国へ帰ってしまう。この戦闘において、児玉の戦術的指揮能力のなさが明らかとなる。彼は、自らの先入観によって戦闘を劣勢にするほどの失態を犯している。また、これまでの彼の動向を見るに、彼は戦略から見た戦術の指揮能力はある(旅順攻略戦において)ものの、その場その場においての戦術立案能力は低いことがわかる。先の戦闘においての兵力の逐次投入や、その場しのぎの兵力転換は、軍事においてはタブーであり、各個撃破や兵員の疲労という危険性をはらんでいる。
さて、黒溝台にて何とかロシアの猛攻を跳ね除けた日本軍は、なんとか有利な状態で講和に持ち込むため、奉天会戦を「日露戦争の関が原」と位置づけた。日本軍は日本陸軍のほぼ全勢力を投入した。一方、ロシア軍のクロパトキンも壮大な作戦を描くものの、慎重なクロパトキンは命令を一度撤回したため、再度攻撃命令を出したときには日本軍が動き出しており、受身に回ってしまう。
2月21日最右翼に位置する鴨緑軍が進軍を開始する。第三軍の第十一師団を吸収し、清河城を制圧した。この陽動で進撃してきたのが「第三軍の」十一師団であると誤認したクロパトキンは、各方面から戦力を引き抜き、この方面に当てる。それは、クロパトキンは、ロシアが最南端の不凍港として威信をかけて築いた旅順要塞をたった半年で抜いた第三軍という見方をしており、第三軍こそ日本の最精鋭であると考えていたからである。この動揺に乗じて、2月27日に左翼にいた本物の第三軍が敵に回りこむべく旋回運動を開始。3月1日第一軍が鴨緑江軍と連携して正面攻撃を始め、第二軍、第四軍も旅順から運ばれた二十八センチ砲を用いて正面へ砲撃し、翌日には進撃を開始した。この頃になると、クロパトキンも日本軍の作戦意図に気づき、東部の兵力を、本物の第三軍のいる西部へ移した。第三軍はこれに苦戦するものの、3月2日、秋山支隊が第三軍に配属され、騎兵の機動力を生かして北上し、3日に田村支隊と合流する。さらに大房身にてビルゲル支隊に遭遇するも、これを撃退して、翌日には奉天西方まで進出した。
一方、兵力において圧倒的に有利なロシア軍の攻撃も激しく、日本側は明らかに劣勢であった。が、7日になると、クロパトキンは背後へ回り込もうとする第三軍の動きを恐れ、正面において日本軍を圧倒していた軍勢までも後方の運河に退却させる。これに第一軍・第四軍が追撃し、形勢は逆転した。9日にはクロパトキンは全軍撤退の命令を下し、10日には奉天が陥落。こうして、日露戦争の関が原であった奉天会戦は日本の勝利で幕を閉じたが、この戦いにて7万の死傷者を出した日本軍に余力は残されておらず、進撃は止められ、児玉は早期の講和を促すために日本に帰還する。
さて、これまでの両陸軍の戦闘をみると、日本側の作戦ミスとロシア側の弱気な戦術が目に付く。両方とも兵の指揮官に問題があるのだがクロパトキンについては、臆病というよりは、ロシア人の焦土作戦を得意とする国民性の問題であると念を押しておく。
七段構え
1夜間襲撃→2主力決戦→3夜間襲撃→4追撃戦→5夜間襲撃→6追撃戦→7機雷戦
この奉天会戦で陸戦は終わりを告げたが、海戦は最後の決戦と呼ぶべき日本海海戦があった。ロシアのバルチック艦隊が、太平洋艦隊の無力化とともに出撃し、半年以上かけて地球を半周して日本近辺に到来したのだ。しかし、バルチック艦隊はそれまでに日本の同盟国イギリスによってスエズ運河が通れず、圧力によってフランス領での整備も満足に行えなかった。艦・兵ともに疲弊し、訓練もままならず、士気も上がらない状態で日本海軍と戦うこととなった。
一方、日本海軍は秋山真之による七段構えの戦法が考案されており、それに近い形で海戦が展開されていくことになる。
日本海海戦は敵艦が一隻でもウラジオストクに入ってしまえば、制海権が完全に手に入らず、陸軍の消耗とあいまって、戦況が逆転する可能性があったため殲滅を目標としていた。さて、5月27日午前2時45分、哨戒を行っていた信濃丸は敵艦隊を発見し、その2時間後には主力艦隊が報告を受け取り、出撃した。11時30分、第四駆逐隊四隻が敵の艦隊の針路を測るため、バルチック艦隊の前を横断した。が、これを、機雷が撒かれたと誤認したバルチック艦隊長官ロジェストウェンスキーは艦隊行動を行うものの、失敗し、単縦陣が二本の梯子形陣になってしまう。そして、午後1時39分に、三笠がバルチック艦隊を発見する。距離一万二千六百メートル。団子状になっているバルチック艦隊右翼へ連合艦隊は南下し、55分にはZ旗が掲揚され、2時2分、距離八千メートルにして連合艦隊は急旋回した。東郷ターンとよばれる丁字戦法である。これは敵の頭を押さえるというよりも、自分に有利な位置で同航して打ち合うための戦法である。さて、この戦法は前述したとおり一度は黄海海戦で敵に逃げられている危険な戦法であり、東郷はそれでも目頭においての敵との距離を縮めてまでこの戦法に固執していたようだ。
さて、2時8分、バルチック艦隊が七千メートルで砲撃開始。三笠は集中弾を浴びるものの、クルップ鋼の装甲により中破で済んでいる。2分後、三笠も射撃開始。他の主力艦もこれに続き、程なく距離は五千メートルに縮まり撃ち合う。しかし、長い航海で質が落ちていたバルチック艦隊は5分後には被弾し、2時45分の東郷による縦貫射撃によって、大勢が決した。しかし、ここで旗艦スヴォーロフが舵に被弾して回頭し、これを東郷は敵艦隊の回頭とみなし、全艦隊による一斉回頭を行う。結局、連合艦隊は再び回頭するも、一時間近くをロスしてしまう。これは東郷の操艦ミスである。しかし、第二艦隊は独自の判断でバルチック艦隊に砲撃したため、敵を取り逃すことなく、危機を切り抜けた。一方、ロシア側は逃げるうちに、偶然バルチック艦隊を見失っていた東郷の第一艦隊と遭遇してしまい、バルチック艦隊(旗艦スヴォーロフ不在)はいよいよ混乱し、逃げ惑うばかりとなる。そして、頭部に重傷を負い、スヴォーロフから脱出していたロジェストウェンスキーを乗せた駆逐艦も降伏する。さて、バルチック艦隊の第三艦隊は老朽艦であったため、実質上の戦力としてみなされておらず、敵味方から放置されていた。そして、第三艦隊の司令官ネボガトフは、残存の五隻をもってウラジオストクに逃げ込もうとするが、待ち伏せしていた日本の艦隊二十七隻包囲される。日本艦隊が健在であることに絶望し、降伏する。こうして、バルチック艦隊の組織的抵抗は終了し、散発的な数隻による抵抗と降伏が繰り返されることとなる。日本軍の損害は、夜襲時の水雷艇三隻のみであった。一方のロシア側は、戦艦八隻をふくむ二十二隻が捕獲・撃沈されている。ウラジオストクにも小艦隊が逃げ込んでいるものの、史上稀に見るパーフェクトゲームであった。
さて、陸戦は奉天海戦で終わりであると書いたが、実は奉天海戦の後、もうひとつ戦いがあった。それは、停戦した後、講和を優位に運ぶために行われた樺太攻略作戦である。これは、6月17日の明治天皇の裁可によって、独立十三師団によって決行された。7月7日、樺太の亜庭湾に入った同師団は大泊に上陸。現地のロシア軍は遊撃戦で対抗するも、一週間後には降伏する。また、樺太のリャプノフ少将も、アレクサンドロス付近の上陸軍に対し抵抗するも退却。7月31日に島の長官でもあったリャプノフは降伏し、作戦は終了した。
日本は勝利に終わったが、戦争の反省点も非常に多かった。その中で最も大きい点は、兵站、輜重の問題である。ロシア側は、シベリア鉄道、東清鉄道を使って輸送できたのに対し、日本は主に補給隊が、馬でも足りなかったため、徒歩も利用して、さらに人員も足りなかったため、現地人員も利用して行われた。よってきちんと補給線が作られることはなく、さらに当初の甘い予測のため、食糧、弾薬、砲弾が足りなくなったのだが、それでも日本が勝った要因は何であろうか。
それはやはりシベリア鉄道の問題にある。シベリア鉄道は1904年に全線開通し、素早く輸送することはできるようになったが、未だシベリア鉄道は単線であったため、輸送力が非常に弱かった。ロシア軍はピストン輸送の形を取らざるを得なくなり、極東に大規模な兵力を展開することが出来なかったのである。
ロシアは余力があり、全軍で押し込めば日本に勝つことは可能であったが、国内でかなり不満が高まっていた。さらに、司祭ガポンの抗議集団に発砲した血の日曜日事件によって、それまで民衆が皇帝に対し信頼を寄せていたのも崩れてしまった。さらにバルチック艦隊の敗北によって、ロシア国内の黒海艦隊などの兵隊も反乱を起こし、このような動きが国内の民族運動に火を付け、ポーランドやフィンランドなどで独立運動が発生し始めた。
ここに至ってロシアは譲歩せざるを得ず、プレーヴェの後任のスヴァトポルク=ミルスキー公爵が血の日曜日以前に国民評議会に国民を加える案を出したが、皇帝とウィッテらに反対されてしまった。血の日曜日の結果彼は辞任し、日本海海戦後に、皇帝専制は急激に崩壊することになる。
日本は攻勢限界点になり、ロシアも国民の不満が爆発しそうであったため、アメリカの仲介によって、日本側全権小村寿太郎、高平小五郎、ロシア側全権ウィッテ、ローゼンの間で交渉が始められた。ニコライ二世は「一コペイカも一寸の土地も譲ってはならない」と発言しており、ウィッテはそれに基づき交渉を行おうとした。一方日本では世論がロシアからの領土と賠償金を望んでおり、ロシアの希望と衝突することになった。結果的に、日本側もロシア側も譲歩し、
・日本の韓国における優越権
・満州からの両国の撤退
・東清鉄道旅順支線の割譲(南満州鉄道)
・北緯50度以南樺太割譲
という講和条約が結ばれた。日本は当初の目的は達成したものの、賠償を求めていた世論の反発を受け、小村寿太郎に対する反発が広がって、日比谷焼き討ち事件なども発生し、ロシアではニコライ二世が領土割譲に対し放心状態となるなど、両国にとって満足できるものではなかったが、完全に勝利敗北が分かれた戦争ではないため、当然と言えば当然であろう。