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其の四:列強の東アジアでの対立
日清戦争に勝利した日本は、二億両という賠償金を手に入れ、その金によって日本の重工業を発展させるきっかけとなった八幡製鉄所が作られた(初めの製鉄所は釜石の田中製鉄所)。鉄鋼業が伸びるにつれて、石炭、機械、兵器、造船業も発達したが、石炭は国内で需要を満たすことが出来ず、やはり外国から輸入していた。結果的に日本は原料輸入のため輸入超過になってしまう。近代戦に兵器生産は必要であるが、原料がない重工業はそもそも日本に向いていない産業であったのかもしれない。
日清戦争に勝利し、西洋から東洋一の国であると認められてから、日本は治外法権撤廃と関税自主権回復という明治政府の主な外交目標を達成している。しかし、ここまでこぎつけるのには維新から30年程を必要としていた。その過程をこれから見ていく。
まず外務卿井上馨はまず日本の西洋化が必要だと考え、ジョサイア・コンドル設計の鹿鳴館(模型参照)を作り、そこで舞踏会を行った。形だけの西洋化によって対等な立場に立とうとしたいわゆる「鹿鳴館外交」である。結果的に形だけでは特に反対していたドイツ、イギリスの意見は覆せず、外国人犯罪において半分以上外国人判事を入れることを条件に盛り込んだ。このことは、お雇い外国人ボアソナードから批判を受けている。1886年にノルマントン号事件が起きたことにより、自由民権運動家が三大事件建白運動を起こすなどして、井上馨の譲歩を批判し、井上馨は辞任に追い込まれた。続いて大隈重信によって改正交渉が継続されるが、反対者によって大隈重信自身が襲撃され、黒田清隆内閣が崩壊してしまった。
改正交渉は青木周蔵に引き継がれたが、この時期に大日本帝国憲法が発布されている。これによって外国は日本の法整備の遅れを理由にすることはできなくなり、一気に改正は進んだと言えるだろう。大津事件のため青木周蔵が辞任した後は、メキシコと不平等条約撤廃を成し遂げた陸奥宗光が継続し、1894年に日英通商航海条約に調印し、不平等条約が撤廃される運びとなるわけだが、このとき国会では過半数を占める野党が政府を厳しく批判し、予算が成立しない自体となっていた。さらに野党は不平等条約撤廃により外国人の内地雑居が認められるとして、外国人を一部地域に閉じ込めるために条約徹底履行を打ち出し、改正したい日本の立場を混乱させることになった。最終的に、自由党の星亨が衆議院議長の座を与えられる事になってから、自由党が与党に接近し、国会の混乱は抑えられた。
このように、日本の1889年から始まった国会制度にはかなりの不備があった。貴族院が勅選議員であり、必ず政府よりであり、衆議院と貴族院が対等であったため、必ずしも政府=衆議院多数という原則が成り立たなかった。1898年の隈板内閣も短命に終わり、政権は伊藤、山縣とその後は西園寺、桂によって運営されることになった。さらに、予算は成立しなかった場合、前年度の予算になる決まりであったため、衆議院で政府が過半数を占めていない状況では、予算は理論上毎年同じものになってしまう(実際は自由党が政府に接近し、吏党が政府から離れるなど複雑な国会情勢があったため、予算は成立した)。
特に野党が徹底批判したのは、政府の予算の使い道であった。政府は富国強兵、殖産興業をスローガンとして打ち出したが、対する野党は民力休養を主張し、軍備に多額の予算を使う政府を批判した。例えば、清からの賠償金の使い道は、軍備拡張費62%、臨時軍事費21.6%合わせて84%ほどであり、さらに1895年に32%しか占めていなかった軍事費は、1897年には55%を占めている。政府がかなりの額を軍事に投入していたことがわかる。
国民の意識は、日清戦争を通じて変化している。日清戦争で日本が勝ったことにより、日本はアジアに文明を伝導する存在であると感じ、日本国民であるという意識も全国に広がっていった。さらに、三国干渉で遼東半島を返還させられたことも国民意識に火をつけ、さらなる軍事化を黙認するきっかけとなる。一方、90%以上の就学率となった学校の教育によって、子供にもその意識は広まり、日清戦争時は子供の間で日本対清の戦争ごっこが行われていたほどである。
ロシアは一般的には、西洋の国として扱われている。確かに文化や歴史は西洋との結びつきの方が強いが、その他の面では日本と同じくいびつな発展をした国家であると言えるだろう。
ロシアの工業の発展は、日本とは違いピョートル一世の時期には行われている。それまでの保守的な皇帝と違い、革新的であったピョートルの手によって、ウラルの鉄、石炭産業を生かして鉄鋼を中心として工業が発展していった。綿織物も中央アジアのハン国併合により綿花が自給できてから伸び始め、ドイツ出身のカンクリンによって保護関税も導入され発展した。
また海軍も、海軍を重要視したピョートル一世によってオスマン帝国から獲得したアゾフとスウェーデンから獲得した土地に作ったサンクトペテルブルクに港を作り、海軍の拠点とした。それぞれが黒海艦隊、バルチック艦隊となり、後のロシア帝国の政策でかなり重要な役割を果たすことになる。
制度もピョートル大帝時には一新され、大臣のあごひげ禁止、暦の変更などが行われ、エカチェリーナの時代には自由な出版、言論も認められた。
このように、ここまでは遅れていたロシアも十分に発展してきた部分も書いたが、ロシアも近代化の過程で例えば鉄道未整備などの多くの矛盾を生じて、それを近代まで引きずっている。それを見ていこう。
一、農奴制の存続
ロシアでは人口の90%を農民が占め、さらに国有地、御料地が合わせてその33%であったのに対し、56%は領主の土地であった。当時の貴族は土地の農民を、その土地から逃げられず、土地の所有権も持たない、半分奴隷のような存在、即ち農奴として酷使しており、農民はしばしば逃亡を試みた。しかし逃亡農民は国家によって見つけ次第強制送還されてしまった。ロシアの工業発展は、この逃亡農民を労働者として利用したことによって、発展が促進されただろう。18世紀にかけて、ロシアの人口は1500万人から3700万人に増加し、ロシアは蒔いた種の3倍ほどの収量しかないほど不毛であったため、恐らく増えた農民は逃亡農民となり、工業に従事させなければならなかったと思われる。ただし、ロシアはイギリスに穀物を輸出していたため、全国民を賄うだけの食糧は自給できたようである。
農奴制は、ヨーロッパでは絶対君主制で国王が権力を強くする過程で少なくなったが、ロシアでは、まずエカチェリーナ女帝時に解決が試みられたが、立法委員会は貴族が農奴の代表として出席していたため、農奴制を含めた全ての分野において進展がみられなかった。アレクサンドル一世の秘密委員会も貴族の善意によって農民は有償で解放されるというものであり、ニコライ一世時もキセリョフが土地なしで人格の解放をしたのみであり、1857年にようやくアレクサンドル二世の秘密委員会によって土地ありの解放が成し遂げられたが、有償で、分与地の広さや土地の肥沃さに応じて貴族に支払わなければならなかった。小作農が存在した日本の状況とよく似ているだろう。
二、皇帝専制
ロシアはロマノフ朝支配下の専制君主国であるが、19世紀になっても、他のヨーロッパの絶対君主国のように、憲法も制定しなかったし、議会も無かった。これは、そもそもロシアの皇帝では皇帝即位時にトルベツコーイの戴冠を邪魔しようとしたデカプリストの乱(既に皇帝が戴冠したため失敗)によって即位が危なかったニコライ一世保守的な君主が多く、革新的な君主も貴族のような保守的な存在に選挙権を与えることはしなかった。専制に問題があるわけではないが、例えばエカチェリーナからパーヴェル時に反動が起きたように、ロシアは皇帝によって政策に一貫性が無かったのである。さらに、民衆は悪い政策は全て側近のせいであり、皇帝自身は民衆よりであると考えていたため、民衆による革命も望めなかった。あえていえば1864年制定のゼムストヴォ(地方自治)くらいであるが、1889年のゼムスキー・ナチャーリニク制などが導入され、結果的に貴族が大部分を占めるようになった。
しかし、1807年から、アレクサンドル一世はスペランスキーを使い初め、彼は右の問題を解決させる改革をしようとした。彼は国会、行政、司法を分けて、郷、群、県、国の順番で組織し、段階的に改革を行う国家改造案を提出した。国家の制度を抜本的に見直すということであり、貴族がスペランスキーを「ロシアのジャコバン」と攻撃したこともあって、アレクサンドルは改革を躊躇し、スペランスキーをニジニノヴゴロドに追放した。彼は国家評議会を皇帝の諮問機関とすることのみ、成功させることができた。
三、民族問題
ロシアでも西洋と同じヨーロッパであるため、政治意識が強まった諸民族により独立運動が起きていた。ロシアはオーストリアほどではないが、数多くの少数民族がいる多民族国家である。これは主にピョートル大帝やエカチェリーナ女帝時の領土拡大に伴って起きたことであり、18世紀末時点でロシア人は49%である。代わりに増えたのがウクライナ人やポーランド人である。ウクライナ地方ではカザークがプガチョフの乱を起こし、共同君主のポーランド王国としてロシアに組み込まれたポーランドでは十一月蜂起、一月蜂起が起きた。ショパンの「革命のエチュード」は十一月蜂起を聞いて作られたものである。ロシアは後述するとおりパンスラヴ主義を掲げ、スラヴ民族を解放しようとしていたが、同時に他民族を支配下に置いていたのである。
四、外交問題
問題というよりは、外国との衝突と言った方が良いかもしれない。ピョートル以降海軍にも力を入れ始めていたロシア軍は、国会のように海峡で封鎖された海ではない場所に不凍港をほしがった。ピョートルによるアゾフ要塞包囲から始まり、ギリシア独立戦争、クリミア戦争、露土戦争と、主にオスマン帝国を相手として、初めはボスポラス、ダーダネルス海峡通行権を、次はバルカン半島の領土を通して南へ侵攻する南下政策を進めていった。しかし、ロシアは局地の問題にすることを望んだが、最終的にはイギリスを中心としたヨーロッパ列強によってイギリスがキプロスを獲得し、ロシアの和平に意義を唱えるなどしてロシアを国際協調の観点から干渉し、ロシアのバルカンでの南下政策は潰えた。このことがロシアの目を極東に向け、またこの時の各国の対応が日露戦争でのロシアの運命を暗示している。
また、ロシアはバルカン半島に南下するにあたって、大義名分作りのために、ロシア人と同じスラヴ民族の解放、パンスラヴ主義を掲げ、バルカン半島に勢力を拡大した。オーストリアとも共同でオスマン帝国にバルカン半島に関する共同声明を出し、アレクサンドル二世、フランツ=ヨーゼフと外務大臣が会談するなど関係は良かったが、ベルリン会議でボスニア=ヘルツェゴビナに権益を獲得し、ロシアとブルガリアの断交によってブルガリアが親墺になった事で、バルカン半島で対立することになり関係は極端に悪化した。このことが第一次世界大戦を起こすきっかけとなる。
五、革命家による運動
ロシアにおいて一番の内患は国内での運動であった。エカチェリーナ女帝時は識字率も5%程度であったため思想家はあまり生まれなかったが、その頃から徐々にヨーロッパの思想を研究するゲルツェンやバクーニンといったインテリゲンツァが増え始め、それが解放後も戦争や支払いのため負担が大きい農民のための運動、「ヴ=ナロード」をスローガンとするナロードニキが増えていくことになる。彼らの中には農村共同体(ミール)に社会主義を見いだしたものもいて、ロシアではナロードニキ運動から社会主義が発生していくことになる。また一方で、プレハーノフの演説により結成が宣言された「土地と自由」から分離した「人民の意志」のような皇帝暗殺を行ったテロ組織も生まれている。
では、少し19世紀後半のロシアの発展の歴史を見ていこう。この時期のロシアの産業発展は、主に蔵相ウィッテの下で行われた。この時期、保守的なロシアであまり敷設されることの無かった鉄道網が拡大し、1890年代に22407キロの線路が作られた。それに伴って鉄鋼業や石炭業も依存する形で急激に伸び、銑鉄は世界第四位の生産量になった。ウィッテは、そのうちシベリア鉄道敷設を支援する一方、外資を積極的に導入した。フランスやドイツなどの支援の下産業革命を起こした日本と似ていると言えるであろう。ロシアに進出した会社で有名なのは、ノーベル社などが挙げられる。
中国大陸は、日清戦争で清が弱体化したことが確認されてから、勢力分割されたとすることが多いが、勢力分割はそれ以前から着実に進み、日清戦争はその一つであると捉えた方が良いであろう。ただ、日清戦争後に清が大規模な分割を受けたのは確かである。1898年頃にフランスは広州湾、ドイツは膠州湾(青島)、イギリスは威海衛、ロシアは遼東半島と言ったように勢力が分割され、その他の土地も、鉄道敷設権、鉱山採掘権などが列強によって分割された。
さらに1900年に義和団の乱が発生し、「扶清滅洋」をスローガンにした義和団を味方にした清は諸外国に宣戦布告し、諸外国はこぞって軍を派遣した。聶士成将軍による抵抗があったものの、結果的に諸外国が押し切り、北京議定書で賠償金と軍の駐兵を認めさせた。賠償金は日本、出兵数が最大であったのに、全体の8%、五番目の賠償金しか受け取らず、これがイギリスなどの日本に対する好感度を上げる一因となる。
また、日本はロシア、同盟者のフランス、ロシアの極東に目を極東に向けさせたいドイツによる三国干渉を受けて遼東半島を返還している。その遼東半島をロシアが租借したわけであり、三国干渉の名目である「朝鮮の独立無実化、東洋の平和」は明らかに建前であり、本心はロシアの極東における南下政策にあるということがわかったのである。
ロシアが極東に重点をおいていたのは、シベリア鉄道からもわかる。シベリア鉄道は1880年まで予算や鉄道政策に対する消極性から建設がされていなかったが、アレクサンドル三世の下で建設が開始され、完成によって即座に極東に軍を輸送できる体制を整えようとしていた。その過程で距離を短くするために李鴻章に賄賂を渡し、1896年にロバノフと李鴻章で第一次露清密約が結ばれ、東清鉄道敷設権、日本の侵略時に共同防衛、戦争時の中国港湾使用が認められ、さらに極東総督アレクセーエフが奉天の増祺将軍を脅迫してさらにロシアが満州を保護するという第二次露清密約を結び、満州を完全に保護下においた。
さらに、ロシアは朝鮮にも権益を伸ばしていた。閔妃を助け、日清戦争後に独立した朝鮮への権益を拡大し、1896年には朝鮮国王をロシア公使館に移し、軍事顧問、財政顧問を受け入れさせた。李完用や李範晋といったような親露の朝鮮人もいた。ロシアは満州朝鮮を支配下におき、海軍は日本海、オホーツク海といった制限から解放され、自由に動くことができるようになった。
それに対し、危機感を覚えたのが日本である。日本は、朝鮮まで南下してくるロシアの次なる目標は日本であると捉えていた。その防衛のために、日本は朝鮮までを支配下に置くことを考えており、山縣有朋は、1889年に朝鮮の利益線を守るために軍事費の増加を訴えている。しかし実際は朝鮮までロシアの影響力が強くなったため、衝突回避のため、主に伊藤博文によって満韓交換論が唱えられ、ロシアとの衝突回避を模索するが、そもそも両者ともロシアの影響下にあるため、ロシア皇帝ニコライ二世は断固として呑まず、小村・ウェーバー協定、山縣・ロバノフ協定、西・ローゼン協定によって、日本の韓国に対する権利、ロシアの満州に対する権利が認められたが、一方でベゾブラゾフをウィッテの反対を押し切って重用し、鴨緑江沿岸の森林伐採を進めた。ニコライ二世は、1891年に日本によった際、津田三蔵に切りつけられる、いわゆる大津事件を経験しており、この際児島惟謙の終身刑判決をロシアは受け入れ、ニコライ二世も問題にはしていなかったようではあるが、もしかすると本心では日本に対しそれ以来恨みを持っていた可能性もある。日本も進出に対して対抗する形で、三浦梧楼による閔妃暗殺や、馬山浦の土地購入など妨害をしたが、ロシアの進出は止められなかった。逆に閔妃暗殺事件により、朝鮮国内の政治勢力や民衆にいくら日本の援助を受けて近代化しても、結局は日本を利するだけだという意識が生まれてしまってもいる。そのため、伊藤博文のようにロシアとの交渉を続ける一方で、山縣有朋などからイギリスとの同盟に方針を転換する考え方も生まれた。イギリスはロシアとバルカン、極東で対立していて、さらに1899年からボーア戦争が始まったため、日清戦争後から日本よりになり始め、同じくロシアと敵対するドイツと共に、ロシアの南下を防ごうとした。この時期イギリスは世界中に領土を持っているため戦艦数はロシア、日本5隻に対して4隻であり、極東でのヘゲモニーは完全に失っていた。ドイツとは揚子江の門戸開放のための英独協定などが結ばれるが、ドイツが極東の同盟構想から抜けたため、1902年に日英同盟が結ばれ、
・一国同士の争いの場合、中立を保つ
・敵が二国になった場合参戦する
という内容が決められた。しかし、月とスッポンの結婚に例えられ、ビーチ蔵相が日英同盟の利益は日本の海軍力と言ったように、イギリスは日本に対し、極東における海軍でのロシア牽制のみを求めていた。
実際は、イギリスも日本もロシアとは牽制のみで開戦まではしたくなかったのであるが、日英同盟はロシアを刺激した。またシベリア鉄道建設によりロシアの南下に日本も刺激されていたのだが、ロシアは日本に対し南下する意図は皆無であった。ロシアの南下目標は中国大陸であり、朝鮮獲得は日本に対する海軍用であって、つまりロシア側も日本に対する警戒から朝鮮に進出していたのである。結果的に両方の誤解から、日露戦争が発生することとなる。
またこの頃、欧米では、黄禍論という考え方が生まれてきていた。この考え方は、ヴィルヘルム二世が提唱した考え方であり、日本や清などの黄色人種が増長してくるにつれて、白人は追い詰められるという考え方である。誕生した背景として、日本や清の西洋化や、黄色人種に対する差別的な考え方がある。また、黄禍論は、日本人のアメリカ移民がアメリカ人以上の働きを見せたことによってアメリカ人にも広まり、アメリカで排日移民法が制定される土壌になったのだが、黄禍論はイギリスでも現れ、イギリスは黄色人種の日本と同盟するのをためらい、ロンドンタイムズも黄禍論を主張した。これは日本と敵対するロシアにとっては好都合な出来事である。
一方日本は欧米がアフリカの植民地支配を正当化する際に使った文明伝導論に似たような考え方によって日露戦争を正当化しようとしていた。ロシアは憲法も議会も制定していないため近代化しておらず、非文明国であるという主張である。結果的にイギリスは東アジアでの情勢から日本側に、アメリカは満州権益から日本側に、フランスは同盟からロシア側に、ドイツはロシアの勢力分散からロシア側にと、結果的に各々の政策に基づいて欧米の考え方も一致しなかった。これを東洋と西洋の図式で考えると、人種によって分けるか、制度によって東洋西洋を分けるかといった違いになるが、もう既に文化による東洋西洋の違いは崩壊しているため、簡単に二極化することが不可能な時代になったと言えるだろう。
まずは、日露戦争の発生過程を見ていこう。
満州に進出したロシアであったが、1902年に満州還付協定を清と結び、順次満州に駐屯させている兵力を撤退させ、1903年9月26日には完全撤退させることになった。しかし、実際は、ロシアは兵力を撤退させるつもりは全くなく、陸相となったクロパトキンは、北満州は占領継続するべきだと訴え、過度に日本を刺激することを恐れたウィッテやラムズドルフを退け、占領継続が決まった。
この当時のロシアの内相プレーヴェや、極東太守アレクセーエフは極東情勢に疎かったが皇帝に重用され、一方でウィッテは蔵相を解任されてしまった。皇帝専制によって、ロシアは日本とわざと対立する方法に進んだのであるが、皇帝自身は、1903年12月15日の御前会議に見られるように、日本が大国のロシアに宣戦布告するとは思わず、時間がたつほどロシア有利になるため問題ないと踏んでいたが、日本の方は、逆にロシアが、時間がたつにつれ強大化することを恐れていた。シベリア鉄道の全線開通がそろそろ行われようとしており、日本と戦争状態になった場合、ロシアがすぐにヨーロッパロシアから極東に兵力を運び、圧倒的な兵力で日本に対し勝利することが予想された。
ロシアは、結果的に満州から撤兵せず、北満州占領を続けたため、後に引くことができないと感じた日本は、1904年1月21日の閣議決定で開戦を決定し、日露戦争が開始された。
ここでは日露戦争前の各国の関係と、アメリカの状況だけ書いておこう。
ヨーロッパは、それまで協調を支えたビスマルクが辞任し、ヴィルヘルム二世が世界政策と言われる政策をとることになった。一応、同盟国のオーストリアに同調したパンゲルマン主義による反露親英の政策を行っていた。
このパンゲルマン主義であるが、これはゲルマン人であるドイツ地域と北欧などで連帯しようという動きであったが、最終的に北欧がこの構想から抜け、ドイツ人のいるバルト三国などのロシアの領土などは全てドイツ人のものであるという拡張政策に変わっていった。どちらにしろ、これは各地の民族自決という概念を否定する考え方であり、同じく民族を統一したドイツと大きな差ができていた。
一方、イギリスとの仲は、経済や海軍でのドイツの台頭にイギリスが危機感を覚えたこと、ドイツがアフリカに対し興味を示し始めたこともあり冷え切っていて、イギリスはインド、アメリカ、アフリカと植民地において、スーダンのファショダ事件に代表されるように、イギリスの縦断政策とフランスの横断政策がぶつかったため、長年フランスと敵であったが、対ドイツという点で接近し始めていた。しかし、フランスとロシアは1891年から露仏同盟を結んで関係が良かったが、イギリスとロシアは対立していて、ドイツに対する包囲網の完成とはならなかった。さらに、ドイツとロシアの関係も、悪かたわけではなく、ドイツはロシアの国力を東にも向けてもらうために、三国干渉ではロシアに協調していた。ニコライ二世とヴィルヘルム二世が義理のいとこだったこともあり、ドイツはともかく、皇帝の意向によってかなり大きく政策が変わるロシアでは、かなりドイツよりの姿勢だったのではないだろうか。
ドイツとフランスの関係は、ドイツが、ビスマルクが望まなかったにも関わらず、アルザス=ロレーヌを割譲させたことにより国民のドイツに対する感情は極度に悪化しており、ブーランジェによるクーデター未遂や、ユダヤ人のドレフュスが裁判で無実であるにも関わらず悪魔島に流されたことにそれが見られる。
このように敵対関係が明らかになる一方で、普仏戦争から40年間平和であり、ハーグ陸戦協定のように、戦争の「非人道化」を抑制する動きが行われてきた。
しかし、結果的にオーストリアとロシアの対立は確実なものとなっており、第一次世界大戦が発生する要素は十分揃っていたと言えるだろう。
アメリカは、没落したイギリスに変わり世界一の経済大国となった国であるが、西部開拓もアメリカには、対外進出では、二つがあった。つまり、
・カリブ海進出
・太平洋進出
の二つである。前者は、1898年の米西戦争講和条約のプラット条項によってキューバを保護国化することに成功し、パン=アメリカ会議を開いてカリブ海でアメリカの主導権を確保することができた。一方、極東の方では、アメリカは、ペリー来航以降は日本との貿易はイギリスに勝てず、日本が文明化し、清においてもヨーロッパ各国が中国の利権を取り尽くしていた。ジョン=ヘイが機会均等、門戸開放を唱えたものの中国に入り込むことが出来ず、極東進出はアメリカ人の反乱に乗じたハワイ併合と米西戦争によるフィリピン保護国化以外は失敗していた。
李鴻章は、日清・日露戦争期において極東の外交を見てみると、何回もその名が出てくる。その李鴻章の生涯を簡単に紹介しておこう。
1823年に安徽省・合肥で生まれた漢族である。1847年に進士になった。1851年に曾国藩に従い、太平天国との戦いに従軍した。その後、曾国藩の幕僚となり、彼の作った新式軍・湘勇に倣い、准勇を設立した。
以後転戦を繰り返し、各地で戦果を上げた。1870年には曾国藩の後継者として直隷総督に就任し、外交の表舞台に立った。既に北洋大臣を兼任していたため、北京に最も近い天津を掌握することとなり、名実共に清を代表する政治家・外交官となった。
さらに洋務運動を推進し、産業や軍隊の刷新に努めていく。1876年には江華島事件では交渉にあたった日本側の森有礼にたいし、牽制を行っている。1884値年の清仏戦争では、早々に講和してベトナム(越南)を失った。またイリ紛争ではロシアの介入を防ぐために武力で介入している。このように、列強に対しては緩急つけた対応を採っていた。
1894年の日清戦争では自らの率いる北洋軍閥が日本と単独で戦わねばならず、用意もできていなかったことから避戦論に回っている。しかし、彼の北洋軍閥は日本軍に負けたため、一時的に勢力を失う。下関条約では、主戦派に狙撃されるものの、講和条約を締結した。
彼の軍が弱体化したことで一時的に失脚したが、彼の政敵も弱体化していたため、すぐに復帰した。ニコライ二世の即位時には、ロシアから莫大な賄賂をもらい、対日秘密条約を締結した。これにより事実上満州を明け渡してしまうことになった。
彼の外交は、妥協した面もありながら、列強に対し隙を見せない外交を行ったが、内政改革が中途半端で合ったため、清が没落してしまった。外交は国力があってこそのものであり、彼は有能な、悲劇の外交官と呼ぶことが出来るであろう。