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其の三:日清戦争と清のその後

日清戦争発生過程

日本と清は同じく東洋で、西洋化をしようとしていた国である。1871年には日清修好条規を互いに治外法権を認め、関税自主権を喪失するという特異な対等な関係で結んだ。この条約は、それまで清の下位に置かれていた日本が対等な関係を結んだというものであり、華夷秩序の崩壊を表す条約であろう。この頃、日本は福沢諭吉の脱亜論にも見られるように、アジアの国ではなく欧州の国になることを目指していたため、清との仲は良好では無かった。特に元々華夷秩序の中にいた国が西洋化したため、領土問題が起きることになる。

まず起きた領土問題は琉球問題である。琉球は薩摩の侵攻により、薩摩の属領とはなっていたが、一方で清とも朝貢関係を結ぶという複雑な関係になっており、中央集権を目指す日本としては琉球の所属国をはっきりしなければならなかった。日本は1874年台湾人に琉球人が殺された事の報復として、西郷従道率いる軍に台湾出兵を行わせた。この事に対し、清は大きく反発し、大久保利通と李鴻章の間で交渉が行われ、中々決着がつかなかったが、イギリスのウェード公使の仲介により清側からの賠償金で決着がついた。なおこの際李鴻章は台湾の帰属問題について、清は西洋の制度である万国公法には従う必要はないという旨の発言をしている。最終的に琉球問題は1879年の琉球処分によって実質的に日本領になるのだが、清はそれを認めず、その後も日本と交渉が持たれている。案としては、

・沖縄本島を琉球王国とし、南を清、北が日本

・沖縄本島までを日本とし、南を清

の二案があったが、アメリカのグラント将軍の調停もあったが、清が後者の日本案を拒絶したため交渉はまとまらず、日清戦争までもつれ込むことになる。

そして、もう一つ、朝鮮で日本と清の勢力が衝突していた。朝鮮は長年清の影響下にあり、釜山に日本大使館はあったものの、それ以外の外国に対しては鎖国を貫いていて、日本は朝鮮を華夷秩序から切り離そうとした。明治維新時に日本は朝鮮に通商を求める書簡を送ったものの、書簡の「皇」「勅」の時は朝鮮では清のみが使えるとして拒否され、清と修好条規を結んだ後も通商を結べないでいた。そんな中、朝鮮による倭館占拠をきっかけにして、日本では欧州使節団が派遣されている間に、朝鮮に西郷を派遣し、武力を背景にして開国させるという征韓論が主張され(韓国を征服するという意味では無いのに注意)、閣議決定されたが、帰った使節団員によって拒否され、明治六年の政変が起き、西郷と板垣が下野する。

これによって収まった朝鮮開国の動きであったが、1875年に朝鮮が日本の「雲揚」に対して砲撃した江華島事件をきっかけとして、日朝修好条規が調印され、朝鮮に対する片務的不平等条約が調印された。初め朝鮮は大日本帝国と記述することに不快感を示したが、朝鮮を大朝鮮国とすることによって解決している。この際、欧州は介入しなかったが、それは欧州も同様に開国を望んでいたからであり、締結後、アメリカ、ロシア、フランスが同様に朝鮮と条約を結んでいる。また、無事に調印された背景には、森有礼と李鴻章が交渉した結果清側が日本の書簡を受け取るように命じたように、清の影響力はまだ大きかった。1882年の壬午軍乱で大院君派によって閔妃(高宗の妃)派や日本人が殺害され、親日派の金玉均率いる独立党が1885年に甲申事変で日本軍の協力によりクーデターを謀るが、袁世凱の援軍によって失敗し、日本の影響力は小さくなった。さらに、壬午軍乱で閔妃は清の袁世凱により窮地を脱したため、親日派から親清派になっていた。

甲申事変の処理として伊藤博文と李鴻章によって天津条約が結ばれ、

・日清は共に朝鮮国内から撤退する

・出兵する際には事前に相手国に通告する

と取り決められた。この条約を根拠に、日清戦争は勃発する。

ここまで見てきてわかるとおり、当時の清は全く遅れていたわけではなく、むしろ日本は、当時は清より劣っていて、極東に進出しようとするイギリスなども、ロシアの南下政策を防ぎ、中国の現状を維持しようとするために、日本ではなく清と結んでいた。未だに西洋から日本は後進国として認識されていたのである。海軍においても日本は清よりトン数で劣っていて、日清戦争は決して日本が確実に勝てる戦いでは無かったのである。

日清戦争は、1894年の甲午農民戦争に端を発する。甲午農民戦争は別名を「東学党の乱」ともいうが、現在主流ではない。なぜなら、東学党は戦争を起こすきっかけとはなったけれど、戦争の主体ではなかったからである。

そもそも東学党は、「西学」、すなわちキリスト教などの西洋の思想のアンチテーゼとして登場したものだ。思想としては仏教・儒学といった東洋思想に加え、平等主義的思想を大いに含み、民衆に支持された。没落両班だった主唱者は政府によって処刑させられたものの,教団は拡大していった。朝鮮政府は恐れたが、手をこまねくばかりで、有効な対処を取ることができなかったのである。

背景には、朝鮮政府への朝鮮民衆の不満が増大していたことが言えるだろう。理由は主なものとして、

・日朝貿易による物価の上昇

・軟弱外交をとり続ける政府への不満

が挙げられる。

まず、日朝修好条規とそれに付属する貿易規則により、日朝貿易で無関税となってしまい、安い日本製商品が流入してしまったのだ。既にその額は清朝貿易を遙かにしのいでおり、政府も手を打とうとしたが手遅れであった。

次に、清や日本の政治介入が何回もあった事が大きい。壬午政変では、仮にも国王の父である大院君が清によって拉致される、甲申政変では日本がむやみにクーデターを起こそうとしていた。そして政権を握った閔妃は清に従うことで、事実上朝貢関係から契約による隷従を基調とする宗属関係に移行していたのである。民衆はこのことに憤っていたのだ。こうして1894年、民衆の怒りは爆発し、甲午農民戦争が発生した。秘密組織・東学党教団が民衆を扇動して政府打倒をはかろうとしたとされたので「東学党の乱」と呼ばれたが、あくまで農民主体の闘争である。その性格は、

自治組織による農民コミューン

ということに集約できる。既に農村主体の自治政府が確立し、政府と相反する組織として成長していた。このコミューンの勢力は強大で、政府は手をこまねき「全州和約」を締結して農民側と妥協した。これは、政府側がむやみに農民たちと対立するよりも、ある程度自治を認めた方が得策だとの判断がなされたからであった。政府も、民衆の力を認めたのである。身分格差の激しい朝鮮において画期的な出来事である。

さて、政府は農民軍の拡大を恐れ清にたいし軍の派遣を求めた。北洋軍閥を率いており、清最大の実力者として外交軍事を牛耳っていた李鴻章は、直ちに軍の派遣を決定。北洋水師(艦隊)の提督・丁汝昌に対し軍艦3隻を向かわせると共に、もともと国内にいた朝鮮駐留軍に加え、兵力を増強したのである。なお、清は天津条約に基づき、日本に出兵勧告を出している。

ところが、日本政府は既に、清からの通告を待たずに出兵することを閣議決定していた。当時の伊藤博文首相は出兵に反対だったらしいが、陸奥宗光外務大臣らが画策して派遣を決めたという。兵力は第5師団(広島)から、混成1個師団を編成させた約7000名という大軍である。

こうして、朝鮮に対峙することになった日清両軍だったが、既に甲午農民戦争は終結しており、両軍ともに在留の意義を失っていた。ことさら、何の関係もないのに在留邦人の保護と称して派遣していた日本はそうであった。実際、現地では日本の大鳥圭介大使と清国の袁世凱が協議し、撤兵について協定を交わしている。

しかし朝鮮に軍を残しておきたい日本政府は、清国・朝鮮政府に対し共同改革案を提示した。清は受け入れられないとして拒否した。清は日本がそもそも朝鮮を独立国=主権を侵害されないとしているのに、日本が主権侵害を提案するとは矛盾しているという、極めて有効な反論を行った。確かに、清の反論は正しいので、日本にとって劣勢であった。

だが、これにより日本国内において主戦論が高騰を見せることになる。「改革を推進する文明国・日本」「改革を否定する文明の敵・清」という論理で国民に理解されたからである。一気に主戦論に傾いて、以後世論は日清戦争へ突き進むことになるわけだが、以後は次の章に譲る。

日清戦争

この章では、日清戦争についての実際の戦いについて、軍事面から考えたい。

まずは、最後の士族の反乱とも言える国内最後の内戦、西南戦争直後から清との関係と軍事事情を対比していく。

西南戦争は明治6年よりの徴兵制を含む9年間の新軍政について、ある一定の成果を示した。しかし、国内最後ともいえる武力に訴える不平分子を鎮圧したことにより、日本国内において平穏のときが訪れた。が、これはすなわち軍が乱れることを意味する。これを早急に察知した山県有朋(当時・参謀本部長)は、明治13年に軍備増強の必要性と精強になりつつある清の脅威、そして軍民の緊迫の弛緩を指摘した。これは卓見として受け止められ、後に重要な意味を持つことになる。

明治15年、朝鮮にて壬午事変が発生した。日清両軍とも朝鮮へ出兵するものの、清が主導権をとる形で終結した。というのも当時の日本では清と衝突しても勝ち目がなかったからだ。この状況を鑑みて、山縣(参事院長)は改めて軍備増強を強く上申する。これに岩倉具視、川村純義海卿の賛成もあり、対清戦略における軍備増強策がとられることになった。明治十九年、長崎丸山事件(清の水兵が示威行動中の清国軍艦から上陸、一般市民に暴行、略奪した)も起き、いっそう危機感は募った。

明治21年、陸軍はこれまでの国内戦重視の備えであった鎮台制を廃止、常設七個師団と陸軍大学校の新設などの下士官を中心に据えた軍教育の拡大を行う、外征重視の軍制へ切り替えた。海軍も清国艦隊へ対抗しうる際小規模の水準を48隻と推算し、軍備拡張を急ぐものの、国内戦において陸軍が主軸であったことと新政府が財政難であったこともあり、難航した。が、財源確保の財政政策が、

紙幣の整理→民間企業勃興→銀本位制の成立へとつながり、日本の富国政策の基盤となった。そして、海軍も48隻の建造は無理だったものの、軍備は充実していった。

また、清では太平天国の乱が長引いたことからもわかるように、正規軍ですら反乱軍を鎮圧できずにいることが露呈し、清の軍隊が無力であることを曝すこととなった。

さて、その日清両軍について話そう。

清軍側の呼称について説明すると、まず八旗軍とはもともと清の正規軍として組織されたものの、この軍に属する者は農地の支給や官僚としての登用などの優遇措置をとられた。その封建的政策は、官僚の世襲という制度とともに軍人の向上心を奪うこととなった。また、猛一つの正規軍として作られた緑営軍も、八旗軍の補助という役割があり士気は奮わなかった。

このように堕落した正規軍に代わって清の実戦力となったのが勇軍である。これは各地の権力者が募ったいわゆる義勇軍であり、外国人将校に訓練され、統率された部隊さえあった。その部隊は練軍と呼ばれたが、この二軍は義勇軍として登場したために社会的に下層に席のあったものが多かった。そのため、教育水準、規律に問題があり、訓練の成果も上がりにくかった。

兵力は四分の一、兵器は五分の一程度しかなく、有形戦闘力において圧倒的不利にあった日本ではあったが、この時期は日本の近代化政策が如実に効果を表し始めていた。すなわち義務教育制の施行である。徴兵における日本軍の兵員の年齢は十七歳〜四十歳となっており、日清戦争当時にはすべての兵員に義務教育が施されていた(という仮定)ので、先頭における指揮命令において効力を発揮している。このように圧倒的不利な有形戦闘力とは対照的に無形戦闘力は日本が段違いに高く、実際の戦闘時には大きな影を落とすこととなる。

1895年7月の豊島沖の突発的海戦から8月1日に日清両国が宣戦布告し、日清戦争が幕を開けた。当初は、日本軍は相手の兵力も十分掴まずに攻撃を仕掛けるなど危うい場面があった。

7月29・30日の成歓・芽山の戦いがそれで、兵力が互角の戦いであった。しかし、第九歩兵旅団の猛攻により、日本側の犠牲者30人に対し、清国側の犠牲者は500人という日本の圧勝に終わっている。だが、戦闘の内容を検証すると、日本軍がいまだ旧式の「村田銃」も使用しているのに対し、清はガトリング砲さえも配備していたといわれている。しかし、清軍の兵士は十分な訓練がなされていなかったため、これらの優位性を生かすことができず、日本陸軍は順調に進軍を続け押し切ることができたのである。これには、真軍の下っ端の多くが雇われた兵であるということも一因としてあった。雇われた兵士は士気が低く、敵前逃亡を行うことが多かったのである。

一方、海軍は豊島沖海戦に続き天王山ともいえる日清戦争最大の海戦、黄海海戦へ臨む。清国の海軍は、世界最強とも呼べる横陣艦隊を編成しており、ハード面では間違いなく世界有数の勢力であった。詳しくは部誌の論文に掲載してあるのでそちらを参照してほしい。この海戦も、陸軍と同じく士気とソフト面での優越を生かした日本側が勝利する。

そして、陸軍による旅順攻略作戦である。早朝5時に幕を開けたこの戦闘はわずか7時間で決着がついた。当時の旅順港は軍港であったとはいえ、要塞にはされておらず、例の清の兵隊の問題もあって早期に戦闘は終結した。これは、この攻略軍に従軍していた乃木希典に、「旅順はもろい」という先入観を植え付けることとなる。また、この戦いに関しては事前に騎兵隊による偵察もなされていた。

黄海海戦にて傷つき、消耗した清国艦隊は威海衛の湾内へ隠れ、日本との洋上決戦を避ける構えを示した。そこで、日本海軍は当時補助艦であった水雷艇を用いて、敵の停泊する湾内に突入し、魚雷攻撃を敢行することを決意する。これにより、清の主力艦が撃破され、清国海軍は降伏する。日本の作戦ではこの後、北京に敵前上陸予定だったが、講和へと国際情勢が傾き、下関条約が締結されることとなる。

余談ではあるが、この威海衛海戦は列強に大きな衝撃を与えている。たとえば、ロシアによる日本進攻のシナリオにおいては、駿河湾が上陸地点として指定されている。この理由は、「狭く湾口が閉じている伊勢湾や東京湾は水雷艇が潜んでいるが、駿河湾は広いため、安全である」というものであった。これは威海衛海戦で日本がとった水雷艇作戦がかなり警戒されていたことを示している。

1894年11月に米・英・露が日清間の斡旋を行い、講和交渉にはいることとなる。はじめ清は外交官を派遣しただけだったが、日本は全権大使としての書状が不備であるとし、退けた。伊藤博文首相は、北洋大臣・李鴻章か総理大臣(事実上の外務大臣)・恭親王の派遣を求めた。

これを受けて李鴻章が李経方を連れて下関に到着した。清は即刻休戦を求めていたものの、日本は台湾併合の時間を稼ぐため、拒否し続けた。そうした中李鴻章が狙撃されて各国の同情が集まったことから、休戦の先延ばしをあきらめて休戦条約を提携する。内容としては、台湾出兵を清が容認することになった。

さらに日本側は李鴻章たちに講和条約草案を提示し、清が交渉に入った。清は賠償金の減額と朝鮮の両国による独立承認を要求したが、あくまで陸奥外相は清が朝鮮独立を認めることだけにこだわり、賠償金はあくまで莫大な額を要求した。結果

・2億両を清が支払う

・清が朝鮮の独立を承認

・台湾、澎湖諸島、遼東半島を日本が領有する

ということで一致し、条約を締結した。

日清戦争の意義

日本

 日本にとっては、

・朝鮮を清との宗属関係から脱させた

・台湾を併合し、琉球問題を解決した

・ナショナリズムが確立した

・欧米に主要国家の一員と認識される

という意味において意義深い戦争となった。まず、朝鮮が清の勢力下を離れることで、日本が朝鮮への介入がしやすくなったのは大きい。日本側のもくろみとしては、朝鮮を親日的近代化させ、利益線論の達成のための中立独立・貿易の独占を行っていくことが保障されたはずなのである。その意味で、帝国主義の萌芽が見えている。さらに、琉球は清とこのころまでもめていたが、ようやく台湾を領有したことにより、支配権を確立した。

最も大きいのは、ナショナリズムの確立だろう。江戸時代、藩という意識はあっても、「日本」という国家意識が薄かったわけだが、戦争という一大イベントを通して「日本」という国家を明確に意識しえたわけである。日本が「国民国家」に変わった重大な戦争であった。

また、日本が、欧米にとって、極東のヨーロッパ勢力の衝突の中で、重要な位置を占める国として認識されたのもこの時期である。明治維新即近代化と日本はヨーロッパに受け入れられた訳ではなく、これまでもこれからも述べるように、日本は清と同じ発展途上の国として認識されていた。それが、この日清戦争によって、日本は清の代わりに極東の国では頂点の国と認識されるようになるが、同時に崩壊した東洋に西洋が進出し、日本が脱亜入欧を目指していたこともあり、清に代わって、新たな東洋秩序を作ることは不可能であったが、かといって、完全に東洋から西洋に移り変わったという訳でもなかった。

清にとっては、

・「万国公法」の世界に強制加入させられた

・半植民地化する契機となった

という戦争と位置づけられる。日清戦争により「眠れる獅子」ではなく、「死にかけた獅子」であることを暴露してしまったという事実があるが、西洋による勢力進出はそれ以前から行われている。しかし、このことによって清への進出が急加速していったのは事実であろう。そして、東アジア世界に属していたはずの日本に敗北したという厳然たる事実は、朝貢国に対する権威を失わせることになった。日清戦争時を以て、事実上東洋は消滅したといってよいかもしれない。

その後の清

ここで少し、その後の清について触れておこう。中国を中心とした華夷秩序は消滅することとなり、中国はそれまでのように、東洋の支配者として存在することは不可能になり、世界システム論でいう、周辺、即ち植民地になるか、または日本のような西洋化によって彼らが言う「先進国」の一員になるしか生き残る方法はなかった。

当然、清においてもそのような改革の動きは出てきた。光緒帝と、その腹心である康有為、梁啓超による戊戌の変法と呼ばれるものである。この運動は、最後に行われた清の上からの改革である変法自強運動であり、清が西洋の仲間入りをする最後の機会であった。康有為は40代、光緒帝、梁啓超は20代という、非常に若い人によって行われた改革であり、そのためか、それまでの中体西用の考えをもとにして制度改革は否定するのではなく、科挙制度見直し、学校制度、議会制度など、清の制度も根本的に見直す改革を行おうとした。

結果的に、若き皇帝による改革を良く思わなかった西太后が、権力を取り戻すためにいわゆる戊戌の政変と呼ばれるクーデターを起こし、康有為、梁啓超は日本に亡命したため清の追求を免れたが、光緒帝は西太后に捉えられ、頤和園に幽閉されてしまった。ただし、改革者たちは20代のかなり若い人たちによって行われているため、この後改革が続けられたとして、清が欧米から侵略されることなく、権利を取り戻して西洋の国となれたかどうかは微妙である。

こうして西太后は復権し、清はまたすでに無くなった、保守的な華夷秩序のもとに発展していこうと試みることになったが、西太后であっても、民衆の不満を抑えて、改革を行わないのは不可能になっており、西太后は10年後に国会を開設することを約束させられた。

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