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其の二:日本、清の西洋化

日本

日本においては、明治維新は日本の「近代化」の幕開けであると捉えられているが、日本は、旧幕府体制の藩士からなっている明治政府によってすぐ西洋化を進められるわけはなく、廃藩置県、地租改正などの改革が進められる一方、士族に対する家禄は維持され、農業中心の社会であるなど、多くの古い要素も残したままであった。これからは、日本の「近代化」の矛盾をしてきつつ、日本が東洋から西洋へと移り変わろうとする過程を見ていこう。

一、日本の法整備

明治維新を成し遂げた後の日本は、フランスのボアソナードらの下での刑法、民法の整備をし、ドイツのシュタイン、グナイストの考えを参考に、ドイツのロエスレル、モッセの助言をもとに伊東巳代治、金子堅太郎、井上毅、伊藤博文たちが大日本帝国憲法を完成させた。政治において日本は西洋の様々な国の制度を取り入れていった。軍隊はフランス式であり、鉄道はイギリスのモレルの協力によって敷かれ、教科書はアメリカのものを初めは模倣した。

大日本帝国憲法はかなり不備のあるものであり、憲法の内容が法律によって変化したり、元老や参謀本部・軍令部など憲法に書かれていない組織があったりした他、天皇直属が述べられるだけで各機関の関係が一切述べられなかったりしていた。また、内閣は憲法上規定が無く、国務大臣単独輔弼制(今の日本は連帯責任制)・内閣総理大臣は同輩の首席でしかないなど、のちに日本で軍部の暴走を起こすことになる問題が多々存在していたわけである。

二、産業革命による日本の経済の急変化

さて、日本も西洋化に伴い1880年代に産業革命を果たすことになるのだが、初めに日本で発達した産業は生糸や綿糸などの軽工業であった。フランスの援助により作られた富岡製糸場を代表とする官営生糸工場が各地に作られ、主に女性の出稼ぎ労働者が一日十二時間交替制で働き、臥雲辰致のガラ紡発明により効率は10倍になり、生産量を伸ばした。しかし1890年代にはヨーロッパの不況によって生糸価格が暴落し、代わりに綿織物産業が、ジョン・ケイの飛び杼ことバッタンや豊田佐吉の力織機によって効率は上昇し、国内の需要を満たしていって、日露戦争の頃には輸入を輸出が超すまでになっていった。

しかし、日本の生糸産業発達に伴い蚕産業も発達したが、綿花は朝鮮や中国から輸入していた。具体的には1895年の総輸入額の19%を綿花が占めている。原料確保が日本の大陸進出の一因であるのかもしれない。さらに日本では急激に産業革命が起きたため、法整備が追いつかず、西洋でも起きた社会保障問題が起きる。日本は急激に西洋化したために、様々な欠点を同時に処理しなければならなくなった。さらに生糸は外国輸出向けであり、日本に対するものではなく、外貨獲得としては適切であるが、日本の産業発展には役立ってない。日本は必要ない産業発展をしたのであった。

日本の産業発展と共に貿易に投資した横浜正金銀行のような銀行も興り、日本は資本主義社会として政府の介入なしに発展することになるが(その代表が渋沢栄一であり、岩崎弥太郎である)、それまでの過程はヨーロッパとは違う。ヨーロッパは自由な競争の下、民間企業が産業を発展させていったが、対する日本は官営工場を経営した後、それを三井三菱などの政商に払い下げて、政府主導で産業を発展させていった。急激な産業の発展には政府の介入が必要なのである。ただし、その過程で黒田清隆の開拓使官有物払い下げ事件が起きている。

また、農業では品種改良や灌漑などによって生産性は上昇したが、松方正義がインフレ対策として行ったデフレにより米価格が下がり、農民は小作農と寄生地主に分かれ、農民の政治意識が低下し自由民権運動が収まるのに役立った。

そのインフレは、日本に導入した金との兌換紙幣によっておきた。そもそも日本は東西で金貨銀貨が違い、紙幣も各地で違ったため、その統一が必要であったが、国立銀行ごとにも紙幣が違い、その信用を確保するために、金で価値を保障する必要があった。日本と欧米の換金レートは異なっていたため、日本の紙幣が次々と金に変えられ金が流出し、応急処置として不換紙幣に変えることになった。しかし、これによって紙幣乱発によってインフレが起きてしまったため、松方デフレが行われ、副作用として農民が没落したのである。

そもそも、米納であった日本に、金納を適用し、中央集権化によってそれまで違った制度を一つにまとめるのにはかなり無理があったと言えるだろう。村の所有物であった入会地の国有化なども同じであり、西洋の制度は日本には合っていなかったのである。

三、徴兵制と軍事

軍事面においては、

・技術革新

・制度改革

の両方が行われた。

後者は、兵員が士族から徴兵制によって庶民に変わった点がもっとも大きな点であろう。明治政府が徴兵制を導入すると決めたのは、1872年であり、満20歳以上の男性が3年間兵役につくことが義務づけられた。モデルは70万の徴兵軍を持っていたプロイセンであった。しかし、この徴兵制に作られた免役規定の幅がかなり広く、病気のものや体格が小さいものに加え、一家の主人や、一家を継ぐ長男は徴兵されることが無く、270円を納めれば徴兵を免除する事が出来た。免役率は1876年に82%であり、ほとんどの国民が徴兵を逃れている(徴兵されたのは主に貧しい農家の次男坊・三男坊)。この事態が改善されたのは1883年と89年の二度の徴兵令改正によってであり、ここに至って日本はようやく国民皆兵制を導入することが出来た。

しかし、国民皆兵制は果たして軍隊において最良の選択であるのだろうか。特に初期の徴兵制による軍隊は、西南戦争によく現れている。西南戦争は士族の職を奪おうとする政府に対する反乱である。高い地租に不満を抱いていた民衆と結託し大規模な反乱になる可能性もあったが、政府が地租を2.5%に下げたことによって沈静化した。しかし明治政府と士族は熊本城付近の田原坂で一ヶ月も戦い、士族は明治政府と互角に戦っていた。士族は戦闘を職業にしているため怖じけずに戦えたが、徴兵された兵士は弾におびえ、弾が命中しなかったのである。さらに士族の仕掛けた白兵戦も徴兵された兵士には厳しいものであった。最終的に山縣有朋が初めは使おうとしなかった士族出身の警察官による抜刀隊まで投入して、西南戦争に勝ったものの、徴兵制の欠点が現れた戦争である。ただし、政府は戊辰、西南戦争で大量の外債を抱えており、歳出の30%を占めていた武士の秩禄はおろか、国民皆兵の徴兵軍も支えることは出来なかった。

四、教育制度

明治政府は1872年の学制を初めとして、教育制度を整えていった。中央集権されていないと大きな政策は行えないように思えるが、明治維新以前の地方分権化されていた幕府体制下でも、教育制度はかなり整っていった。武士は藩校所などで朱子学を学び、庶民は寺子屋で読み書きそろばんを習っていた。識字率は欧州と比較しても高く、低い長野でも40%、高い江戸では80%以上あった。そこから生徒を引き抜くのは学費が高く、試験が難しかったこともありかなり難しく、文部大臣の森有礼が小学校令を発布して実質無料となった後も、寺子屋は存続した。結果的に寺子屋も学校に編入することによってようやく当初の目標の半分の学校を用意することが出来た。ただし就学率は上昇していき、日清戦争が起きる1894年には59%、日露戦争が起きる1904年には94%に達していた。

急進的な文部大臣の森有礼が西野文太郎に暗殺されてからは、学校は知識の教育よりは、それまで日本には無かった国民意識を作る場所に変わっていった。天皇も含めた上のものに対する忠孝が重視され、元田永孚のような極端な意見は否定されたが、その意見は教育勅語に反映された。各学校には教育勅語と御真影が配られた。内村鑑三不敬事件は勅語に対する拝礼を拒否したため起きたものである。すなわち、この時期の日本の教育は日本人としての統一意識を持たせるためであり、この教育が日清戦争を通じてナショナリズムへと変化するのである。

清は先述したとおり、イギリスとの貿易黒字であったが、アヘン貿易によって国内が退廃し、貿易赤字になってしまった。一方イギリスでも、公行と呼ばれる商人団が外国との貿易を独占し、さらに貿易できる場所が広州に限られていたことに不満を持っていた。清と欧州の双方が相手に対して不満を持っており、東洋の華夷秩序と西洋の秩序が対立して、戦争になる可能性が高くなっていった。ただし、マカートニーの三跪九叩頭の礼の印象が強いため中国は完全に朝貢貿易しか認めていないように思われるが、あくまで形だけであり、貿易自体は、朝貢の儀礼など無い。なお、他の産業に関しても、例えば綿産業はアヘン戦争前の1830年代には輸入超過になり、上海の綿産業は売る市場が無くなっていた。イギリスの綿織物市場となったインドと同じ状況であり、清の織工は壊滅した。

清は国内で麻薬であるアヘンが普及することを危惧し、アヘン輸入を禁止したが、密輸が行われ、清は対策としてアヘンを禁止すべきとする林則徐をアヘン問題の欽差大臣とした。林則徐は商人が持っていたアヘンを焼却処分したが、それに対しイギリスが抗議し、1840年にイギリス国会の採決で、271対262で軍艦派遣が決定され、イギリスと清の間にいわゆるアヘン戦争と呼ばれる戦争が勃発した。この戦争は明らかにイギリスの不当な戦争であり、グラッドストンもこの戦争を批判している。当初広州で戦闘が発生すると予想した清であるが、イギリス軍艦は天津に行き、慌てた清は林則徐を後任にg善を据えた。なお、アヘン戦争で広州ではイギリス軍と民衆中心の平英団との三元里の戦いが行われている。g善はイギリスとの和平交渉を進め、何回かの交渉決裂があったが、最終的に1842年に

・香港島割譲

・賠償支払い

・広州、福州、厦門、寧波、上海の開港

・公行廃止

・虎門寨追加条約による治外法権、最恵国待遇、関税自主権喪失

という内容で南京条約が結ばれた。香港島は清の本土であり、この割譲は清の外交下手を示すと思われるかも知れないが、この条件下においては、豊かでは無かった香港島を割譲するのは妥当な手段である。日本が横浜村を開港したのと同じものであり、上海などの開港も同じ理由である。ただし、イギリスにとっては中国進出の橋頭堡となってしまった。

この戦争により、清の弱体化が明らかとなり、アメリカ、フランスと望厦条約、黄埔条約を結ばされることとなった。東洋の華夷秩序はこの戦争によって崩壊していき、先述したとおり、清も含めて東洋は西洋の半植民地化という形で西洋に吸収されていく。

弱体化したとわかった清にロシアも含めた西洋はさらに進出しようとする。ロシアについては後述するとして、次はイギリスとフランスが清に対してアロー戦争を行った。開戦理由はアロー号の不当な臨検とフランスの宣教師殺害事件であるが、現在では不当な臨検では無かったことがわかっている。さらに、万国公法は東洋を野蛮とし、扱いを変え、西洋の制度であるため、清が従う必要は無かった。極東ではクリミア戦争が終結し、イギリスも清に進出する余裕が生まれていた。結果的にこの戦争も清の敗北となり、アヘン貿易とキリスト教布教を認め、イギリスに九龍半島を割譲し、さらに新たに11港を開港するなどを盛り込んだ天津条約を結んだ。清はその結果外交機関として総理衙門を新設し、西洋と対等な外交を行うことになった。1884年には清仏戦争が起こり、一部の戦闘で勝利するものの、結果的にベトナムのフランス保護国化を承認し、長年属国であったベトナムも失った。

ここまで見ると、中国は完全に取り残され、遅れた存在となっているように見える。しかし、日本の西洋化と比べ、あまり注目される事のない中国の改革であるが、清の優秀な人材によって行われている。まず初めに行われた改革運動は、李鴻章、曾国藩、左宗棠らによる1860年代の洋務運動である。同治帝の統治下であったため同治の中興とも呼ばれ、西洋技術を導入し、富国強兵を進めていった。この改革はかなり成果を上げ、紡績、製鉄、兵器、造船産業が伸び、銀行も作られはじめた。軍隊も近代的になった結果、清仏戦争である程度の成果を上げる。しかし、結果的にこの改革は技術面のみの改革であり、政治体制は法律で縛る西洋式には変えなかったため(中体西用)、企業の癒着や私物化が起き、日清戦争の敗北によって失敗してしまう。この背景には、この頃から皇帝に変わって権力を握った西太后の影響がある。

さらに、中国内で最初の民族運動と呼ばれる洪秀全による太平天国が起こる。太平天国が中国最初の民族運動と呼ばれる理由は、「滅満興漢」というスローガンにある。ただし、この原因は元々人口増加で疲弊していたのが、賠償金支払いのためさらに国力が疲弊し、民衆の不満が貯まっていたというが大きいだろう。民族運動というよりは普通の民衆の暴動という方がいいかもしれない。洪秀全は1851年に蜂起し、南京を占領して、太平天国を建国した。太平天国はキリスト教を参考にしたものであったため、初めは、西洋諸国は中立であったが、アロー戦争が終結すると弱体化した清を、進出しやすいようにそのままにするために支援し、ウォード(戦死後はゴードン)の常勝軍によって戦況は清に有利になり、太平天国は東王揚秀清の粛清や、翼王石達開の離脱などの内部分裂もあって劣勢になり、1864年に太平天国は滅亡することとなる。このことは清の弱体化を表すと同時に、洋務運動のきっかけにもなっていく。

西洋

最後に、この時期清に進出した西洋の情勢について述べておこう。この頃イギリスではヴィクトリア女王、フランスではナポレオン三世、ドイツではビスマルク、イタリアではカブール、オーストリアではフランツ=ヨーゼフ、ロシアではアレクサンドル二世と言ったように、いわゆる「大物」が各地で出現する。やはりロシアについては後で述べるとして、まずはフランスのナポレオン三世について述べよう。1848年に第二共和制に移行したフランスでは、ナポレオンの甥のルイ=ナポレオンがカヴェニャックを抑えて大統領になり、1851年に大統領としてクーデターを起こし、国民投票によって皇帝ナポレオン三世になった。ナポレオン三世は、階層同士の対立と、外征による国威高揚によって支持を得る、ボナパルティズムによって統治した。具体的には1871年に崩壊するまでに、クリミア戦争、アロー戦争、インドシナ征服、イタリア統一戦争、メキシコ出兵に関わり、皇帝マクシミリアン(フランツ=ヨーゼフの弟)が射殺されたメキシコ出兵以外は全て成功した。アロー戦争も、フランスの国威高揚という側面がある。最終的に普仏戦争でナポレオン三世がセダンで捕虜になり、第二帝政は崩壊して第三共和政になる。この間に生まれたパリ=コミューンは世界最初の社会主義政権である。

イギリスでは1837年にヴィクトリアが即位したが、彼女は何ら権力を持たず、「君臨すれども統治せず」を実践した女王であった。政治においては選挙法改正によって民主化が進み、穀物法廃止、1874年まで改正され続けた工場法などによって労働者の保障も満たし、「ゆりかごから墓場まで」を実践する国となった。

一方で、経済の方は1873年にウィーン万博中に発生した株価暴落によって停滞気味となり、1870年には世界の工業生産の32%を占めていたのが、1910年には15%未満に下がっており、代わりに迫害されたユダヤ人や職を失った職人などヨーロッパの過剰人口を移民として集めたアメリカや、統一したドイツが石油、電気を中心とする第二次産業革命に成功し、イギリスを超えて成長していた。その結果イギリスはヘゲモニーでは無くなり、パクス=ブリタニカの時代は終焉した。

一方東アジアではイギリスは清に進出していったが、インドではアロー戦争中にセポイの乱が発生し、東インド会社が無くなっている。それまでに1813年に茶を除き貿易独占が禁止され、1833年に商業活動を禁止されているため、東アジアでの商業はイギリス本国の手に移っていた。

ドイツにおいては、プロイセン主導の下、オーストリアを含まない小ドイツを統一する動きが出ていた。シュレスヴィヒ=ホルシュタイン戦争で得た領土を巡ってオーストリアと普墺戦争が勃発し、勝ったプロイセンが北ドイツ連邦を創設し、その後スペイン王位継承問題からフランスと戦争し、ヴィルヘルム一世が鏡の間で戴冠して、南部四カ国も含めたドイツ帝国が創設された。保護関税によって重工業を発展させ、社会保障を充実させる一方、文化闘争(ビスマルク暗殺未遂や皇帝の二度の暗殺未遂によって終結)や社会主義者鎮圧法によって反政府勢力を弾圧した。

ドイツのような帝国が中央ヨーロッパに出現することによって、ウィーン体制のパワーバランスが崩壊するように思われたが、アルザス=ロレーヌを奪われ険悪な仲になったフランスを孤立させるために(ビスマルクは両地方を奪いたくなかった)、ビスマルクが中心となって、主に反仏であり、膨張しすぎた国を潰すウィーン体制に似た新しいヨーロッパの秩序を生み出した。例えば、ロシアと同盟する一方で、露土戦争においては公正な仲介人と自称したビスマルクがロシア勢力増長を危惧してベルリン会議でロシアに不利な裁定を下している。

また、この時代には戦争の方式において大きな変化があった。その変化は普墺戦争、普仏戦争によく現れている。普墺戦争でプロイセンはケーニヒグレーツの戦いで大勝し、戦争を決した。一方、普仏戦争においては、セダンにおいてナポレオン三世以下10万人を捕虜にし、戦争を決した。この一つの戦争によって戦争が決まるというのは昔からであり、普墺戦争で七週間という短期間、普仏戦争で1年以内に皇帝を捕まえ和平というのも、自軍が攻勢限界点に達する前に和平するというクラウゼヴィッツの理論と同じであり、これは第一次世界大戦まで続く。革新点はプロイセンが鉄道による素早い進撃、電信による素早い通信によって勝敗を決したという点である。銃の性能やモルトケの分進合撃も大きかったが、最も大きかったのは素早さである。これによってより多くの兵力を輸送することが可能になり、戦況の変化を見て臨機応変な対応が可能になった。最早、戦争は国力や動員兵力によって決まるものでは無くなり、それは日露戦争においても当てはまったのである。

コラム 緩衝国タイ王国の歴史

東アジア・東南アジアにおいて、最後までヨーロッパの植民地支配を受けず、独立していた国が二つある。その一つは日本であり、もう一つはタイである。日本が独立を貫けた原因は、西洋化に加え、島国であるため攻めにくかったからだが、タイの場合はビルマとベトナムに挟まれた国であり、その位置のため、過去にアユタヤのような強国が生まれたにも関わらず、ビルマとベトナムの緩衝国と化していた。ビルマ・マレーとベトナムがそれぞれイギリス、フランスに植民地化されると、タイは全ての方向でこの強大な二国に挟まれ、植民地化の危機に瀕する。モンクット王の時代には日本と同じくヨーロッパと不平等条約を結ばされ、次のチュラロンコン王になるとフランスから砲艦外交によって東カンボジア、ラオスを奪われ、いよいよ国家滅亡の危機に瀕するが、タイはここで領土要求に素直に応じ、フランスには西カンボジアを割譲する代わりに治外法権撤廃、イギリスにはマレー半島の一部を割譲する代わりに治外法権撤廃と鉄道資金獲得を成し遂げ、さらにチュラロンコン王のもとで、日本人を含む外国人によって西洋化が行われ、タイはイギリスとフランスの緩衝国として生き残りに成功する。タイは領土40%を失った代わりに緩衝国としてのタイの立場を獲得し、チュラロンコン王はタイ三大王の一人に数えられている。その後、タイは第二次世界大戦で日本に味方するなど日本とはかなり友好的であり、現在のタイ王室も、日本とはかなり良好な関係である。

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