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其の一:世界の変化
日清、日露戦争の記述に入る前に、この時代世界、中国、ロシアは後で詳しく説明するとして、主にヨーロッパがどのように変わっていったかを記述しておきたいと思う。
近世から近代への変わり目は世界史では大きく次の二つであることが多い。
・産業革命
・市民革命
前者は絶対君主制から共和制、民主制への移行であり、後者は産業の効率を飛躍的に向上させる技術面での革新である。一般に長い19世紀と呼ばれる時代の初期に起きた変化であり、この後の西洋の変化の原因となったものである。しかしこれは西洋から見た近世から近代への移り変わりであって、当然その他の地方には当てはめることはできない。
世界的な近世から近代への移り変わりは、東洋と西洋の本格的な開始によって始まったと言える。その前に、ここでいう東洋と西洋を説明しよう。簡単に言うと、ここでは東洋は中華世界、西洋はヨーロッパ世界である。だが東洋は中国とその属国という意味ではなく、中国と似たような政治、社会、経済システムを持っているという意味である。西洋も同様で、西暦1700年頃は東洋に中国、朝鮮、日本、インドシナなど、西洋にヨーロッパ大陸と南北アメリカ大陸が属していた。
東洋と西洋の違いは、中国中心の華夷秩序を取り入れているか否か、また契約の存在の有無などが挙げられる。世界史を見ていくと西洋は進んだ存在であると考えがちだが、産業革命まで西洋の土地の生産力は東洋より圧倒的に低く、その点では明らかに東洋の方が進んでいた。
この二つは距離が遠い二極であり、お互いが交流してシステムが混ざり合うことはほとんどなかった。しかしこれには例外が挙げられ、フン族やモンゴル来襲といった形や、シルクロードによる交流などでお互いに交わることはあり、さらに第三極としてイスラーム世界、アフリカ、アメリカ先住民世界が挙げられる。しかし、前者は主に物的交流であり、情報交換はあったと思われるが、お互いに政治、社会、経済の面で影響を及ぼすことはなかった。後者はもっともであるが、先住民世界は互いにあまり交流がなく先住民世界のシステムとしてまとめることはできず、さらにこれらはこれから扱う時代にはすでに西洋に吸収されているし、イスラーム世界はシステムをまとめることができるが、これから扱う時代のイスラームを代表するオスマン帝国は西洋に入れられるほど西洋と関わっていたため、やはりそれにまとめることができるであろう。
この東洋と西洋は十八世紀頃から外交面でも積極的に交流していくことになる。それは
・通信速度の向上
・西洋のアジア進出
これらは主にヨーロッパの技術革新によって起きたことであり、結果的にこの時代は西洋中心に世界が動いたのは間違いない。
前者であるが、これは陸上の移動ではなく海上の移動である。唐の時代はシルクロードが砂漠の真ん中を通っていたが、蒸気機関の発明により鉄道の通っていない砂漠よりは蒸気船の方が速く移動できるようになったのである。西暦1869年のスエズ運河開通や西暦1914年のパナマ運河開通はその結果掘られたものだ。さらに電信が発明されることによって通信速度は大幅に上昇し、特に電信の整った西洋の国同士の交渉は非常に簡単に進むようになった。しかしこれらは結果的に産業革命の副産物によるものである。
後者であるが、これは後の帝国主義にもつながるのだが、原料や市場を求めての東洋への軍事による進出によって起こった。大航海時代でも香辛料などの貿易を求めて西洋が東洋に進出し、商館を開いていき東インド会社などが作られたが、このように対等な関係で利益を得ようとしたのではなく、植民地として強制的に西洋の商品を買わせたのである。イギリスが植民地にしたインドに大量生産した綿織物を買わせ、原料である綿を買ったのはこの具体例である。この背景は当然工業製品の過剰によって起こり、この過剰は産業革命による大量生産によってもたらされたものである。その点ではやはり産業革命の結果起きたことなのだが、産業革命が起きた要因は何であろうか。
産業革命の発端となった蒸気機関は確かに人の発明によるものであり、環境により自然と生まれたものではない。しかし発明しなければならない土壌はあった。ヨーロッパは1000年頃から人口が増え続けた。その要因にはそれまで恐れられて手をつけられていなかった森林の開拓や、家畜の使用、三圃制によるものであり、ペストの大流行や三十年戦争によるドイツの荒廃があったものの、人口は増え続け、11世紀に4200万人であった16世紀には人口は1億人を超え、さらに18世紀からまた増え続け、1750年に13000万人、1800年に18500万人になった。しかし小麦は米に比べれば圧倒的に収穫量が少なく、ヨーロッパの増加した人口をまかなえなくなっていた。よってヨーロッパでは生産力向上は最優先であった。さらに余剰人口を農業以外の産業に回さざるを得なくなったことと、余剰人口によって行われた新大陸植民によって得た富によって、産業革命が起きた。初期こそそれまで工業を担っていた職人たちにより、ラダイト運動が起こったが、ヨーロッパに次第に根付いていった。つまり人口増加によって産業革命が起きたのである。それによって東洋に西洋が進出し、ここで扱う時代の東アジアの世界観が生まれたのである。
農業においても囲い込みによる生産力向上の他に、脱穀機、トラクターといった機械により生産性はさらに向上し、余剰人口をさらに工業に回し、国を発展させることができた。穀物は国内の供給の問題ではなくなり、イギリスでは1765年に2400万トンも輸出できるようになった。イギリスは1800年には2500万人になってさらに増え続けた一方、日本は江戸時代に3000万ほどになっては飢饉によって減るのを繰り返し、生産力もあまり向上されず、ここが日本の人口の限界であった。しかしこれをもって日本が生産効率で完全にイギリスに負けた遅れた国となったとは言えない。イギリスは広い植民地で生産できるのに対し、日本は本土のみであった。さらに米はそもそも一粒あたりとれる量が小麦より圧倒的に多く、生産量を向上させなければならない理由はなかった。産業革命も、原料が国内であまりとれなかった日本では不可能であった。
しかし、ヨーロッパにおける東洋の評価は野蛮の国という位置づけであり、そのような国家に対しては我々が教育をしなければならないという、一方的な押しつけにすぎない「文明伝導論」を持ち出した。これをもとに西洋はアフリカへと進出していくわけだが、同じような理論は東洋にも適用され、日本の「文野の戦争」などに影響を与えていくわけだが、一方で抵抗する先住民を殺害し、経費の関係から旧体制を残したまま間接支配するなど矛盾も多かった。
では、ここからは少しヨーロッパのみの変化を見ていこう。産業革命にいち早く成功したイギリスはヨーロッパでのヘゲモニー(覇権)をつかんだ。アメリカは独立したものの、カナダ、オーストラリア、インド、アフリカに広大な植民地を持っていた。この植民地支配の背景には帝国主義の存在があった。帝国主義を簡単に説明すると、工業の原料と、効率上昇のためヨーロッパで供給過多になり、その売却する市場を求めて世界システム論でいう「周辺」に進出する考え方である。後に説明する独占企業の出現によって一企業が国家と協力しやすくなり、植民地支配が進みやすくなる。レーニンによれば、帝国主義は資本主義が発展した結果であるが、少なくとも帝国主義の誕生には資本主義が関係しているのは確かであろう。即ち、資本を投下する先としての植民地である。なお、資本主義とは、自由な競争や私有財産制ということを指す場合も多いが、ここでは資本家が労働者を使い利潤を得るという意味での資本主義である。
産業革命により工業が発展すると同時に、資本家が、農奴制において農民を支配する貴族に対し、労働者を使用する存在として生まれてきた。資本家は長時間低賃金で労働者を働かせることも多く、さらにトラスト(合併)・カルテル(価格などの協定)・コンツェルン(いわゆる財閥)などの形で、一企業、または少数の企業が一分野を独占、寡占し、価格競争などを使って、中小企業が入ることが難しい状況になっていた。労働者は選挙権も与えられておらず、不満も貯まっていた。そこで生まれたのが社会主義である。資本家が独占している富を労働者に再分配し、財産を公有化して、産業も国営化しようという思想である。ドイツのマルクス、エンゲルスやフランスのサン=シモン、ルイ=ブランが有名であり、労働者による運動はロシアでの社会主義革命以前にも、チャーティスト運動やインターナショナルといった形で現れた。政府の方も労働者を弾圧したのみでなく、社会改革を行って労働者の権利も保障した。例えば、イギリスの選挙法改正や、フランスの第二共和制のルイ=ブランによる国立作業所設立、労働時間短縮、ドイツのビスマルクによる社会保障政策が有名である。ただしビスマルクは一方で社会主義者鎮圧法を制定し、飴と鞭で労働者を国家に組み込んだ。
社会主義によって労働者が資本家に対し反発する前に、市民革命があった。それまで権利が少なかった市民階級が貴族階級に対し反発したのである。イギリスではピューリタン革命、名誉革命があった後、自然と立憲君主制に移行し、市民革命は無かったが、イギリスの圧政に反発したアメリカ合衆国が民主主義国家として独立した後、フランスで市民革命が起き、しばらく収まったが、1848年にさらにフランスで国王ルイ=フィリップの政権が二月革命で倒され、同年オーストリア、プロイセンでも蜂起が起き一時期首都を占拠された。また、イタリアでもローマ教皇領と両シチリアで蜂起が起きて民主主義になった。
一方で、ヨーロッパではナポレオン戦争後、新しい秩序がウィーン会議で作られようとしていた。「会議は踊る。されど進まず」と形容されるほど各国の利害の調整に困難したが、最終的にメッテルニヒらにより、
・正統主義
・国際協調
の原則の下、ウィーン体制がつくられた。ナポレオン以前の勢力図に戻すというタレーランが提唱した正統主義は、反動的なものであり、国際協調も、自由主義革命に始まるフランスの増長を教訓として、一国の勢力増長を防ぐという点では反動的だと言えるだろう。結果的に各国で起きた自由主義革命は収束し、国際協調もクリミア戦争で崩れたといわれるが、ドイツ誕生後もビスマルクによる政策などに協調姿勢は現れていて、最終的に第一次世界大戦まで存続した。
この時代ではヨーロッパで民族自決という概念が誕生した。これは主に二つに分けられる。すなわち、
・ドイツ、イタリアの民族統一
・バルカン、ポーランドなどの民族の分離独立
の二つである。前者は、様々な事情によって同じ民族であるにも関わらず複数の国家に分けられているのを解消しようとするものであり、後者は、別の民族によって支配されているのに対し反発して、自分の民族による国家を作ろうとするものである。
しかし、この民族は古くからあったものではない。ドイツは神聖ローマ帝国内で諸侯が独立し始めてから統一していないし、イタリアに至ってはローマ帝国の時代まで遡らないと一つの国にならない。初期の神聖ローマ帝国ではドイツ人はフランク人とほぼ同じであったし、民族という概念はごく最近に作られ、それがナショナリズムという形で行動に出てくるのは、例えばドイツではフィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」からである。それは東洋でも同じ状況であり、日本においては藩への帰属意識の方が強く、朝鮮などは中華に次ぐ存在であって民族という意識は形成されるはずは無かった。ただし元に対して反抗して、清の支配に不満を持ち始めていた漢民族は少し民族意識が形成されていたと言えるかも知れないが、それは西洋の進出によって疲弊していった現状を打開する改革意識の方が強く、民族意識は太平天国の乱に見られた程度であろう。
今まで、政治、経済、外交、思想の面から主に西洋を見てきたが、その頃東洋は自主的には大きな変化が起こらず、起こった変化は西洋化であった。西洋はこの時代東洋を(半)植民化していった。日本では西洋化は近代化と呼ばれることが多いが、徳川幕府時代の制度は遅れたものであるという固定観念は捨てる必要があるだろう。ヨーロッパが進んでいたのは工業と軍事技術だけである。農業は先ほど述べた通りであるし、経済は西洋では確かに研究が進んでいたものの、金本位制が金の保有量に縛られて景気対策が出来なかった事を考えると、必ずしも進んでいたとは言えない。さらに貿易も清は茶貿易でイギリスから銀を吸い取っていったし、日本も途中まで輸出超過であり、西洋の方が、国力が強いともいうことが出来ない。軍事も、清はともかく日本は250年ほど戦争が起きなかったため、軍事技術が劣っているのは当然と言えるだろう。政治体制も、どちらも独自の形態を持っているため、優劣をつけるのは不可能であろう。
しかし、西洋は新大陸、アフリカ、アジアの広い範囲を支配し、そこから生み出される富と、進んだ軍事技術によって東洋に進出していった。
進出の動機は商業である。清へは茶貿易の拡大によって関係を持っていき、日本にはアメリカが捕鯨の寄港地を要求して通商関係を持っていった。しかし貿易はどちらも輸入超過であり、西洋から東洋へ銀(清は当時西洋の金本位制と違い銀本位制であった)が流出する事態となったため、清に対してはアヘン貿易により銀を回収し、日本へは改税約書によって関税を5%まで下げさせ、西洋産の商品を輸出した。最終的に東洋は帝国主義のもと、西洋の経済圏に組み入れられていく。
このように東洋側も決して遅れていたわけではないのだが、清には衰退の兆しは現れていた。十全皇帝と呼ばれた乾隆帝の頃に最盛期を迎えていた清だが、その十回の戦いで国家財政が破綻してしまった。さらに康煕帝の頃清の人口は2000万人程度であったのが乾隆帝の頃には4億人にまで膨れあがり、西洋と同じく食糧問題も起こるようになった。それに対し、科挙によって採用された清の官僚には対処しようもなく、さらに清の皇帝が幼少であることが多くなったため、問題を解決することが困難になってしまった。このように弱体化した清に対し、西洋が侵略していき、清も西洋化を進めていこうとするのだが、先に西洋化に成功した日本との戦争によって清は壊滅的打撃を受け、崩壊していく。