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其の四 大和王権
第四章 大和王権
ここからは大和王権が実際に行った外交、内政から当時の国家体制を見ていく。
第一項 大和王権の外交
対朝関係
まずは外交関係の事から書いていく。外交と書いてしまうと対外の戦争などは触れないように見えるかもしれないが、それの方が中心になる。
日本の事がはじめて他国の記録に出るのは、
「57年倭奴国の使者が後漢にやってきて倭奴国は冊封され金印を授与された。」
という後漢書の記述ではないだろうか。
もう一つ有名なものでは、三世紀前半に邪馬台国が魏に朝貢したという魏志倭人伝の記述がある。倭奴国は実際に金印が発見されているのでおそらく実在していたのだろう。とはいえ、これは大和王権の成立時期と違う。
外交といっても当時日本が関係を持っていたのは中国と朝鮮半島の諸国くらいである。今回は朝鮮半島の国々との関係を書いていく。
古代朝鮮の史書である三国史記には紀元前50年から倭の事が出てくるが、大和王権はまだ成立していない時代であるのでその時代は割愛して、三世紀末から六世紀末頃の出来事を朝鮮の資料を参考にして主なことを年表にした。
表が長くならないように、「倭国が攻めてきた」とか「倭国を破った」などの単純な記述はほぼ全て書いていない。また、六世紀末までと書いたのに五世紀で終わってしまっているのも、これ以降には「倭が攻めてきた」などの同じような単純な内容ばかりであることと、六世紀に関しては全く倭の記述がないからである。
ではそれぞれの出来事で重要なものを見ていく。
まず倭と新羅が交聘し婚姻したという記事であるが、これは古事記・日本書紀には対応する記事がない。具体的にどのような関係だったかはよく分からないが、倭が新羅の娘を求めているので倭の方が優勢であったと思われる。
百済が倭王のために剣を造ったという記述は日本書紀にも同様の記述があり、倭と百済が親しかったことを表している。
年表では新羅が奈勿王の第三子である未斯欣を質として倭に送ったという記述が二つある事が分かるだろう。これは「三国史記」と「三国遺事」の二つの資料で時期が違うためである。「三国史記」は官撰のもので「三国遺事」は私撰のものだが、資料の少なさ故はっきりとは分かっていないのだ。ただ、高句麗の広開土王の石碑の碑文によると、三九一年に倭が百済と新羅を臣民にしたということが分かり、それと関連があるとすれば「三国遺事」の記述はおかしいように思える。
なお、未斯欣の帰国の時期に関しても不明である。
残りについては特に書くこともないので詳細については省略する。また、年表に書かなかった五世紀後半では、倭がかなりの回数攻め込んでおり、倭の勢いが盛んであったことがうかがわれる。
ここまでで朝鮮半島の資料を一通りまとめたが、六世紀に関しては前述の通り全く記述がなかった。よって、次は日本書紀を参考にして、六世紀前期に朝鮮半島南部に存在したとされている倭国の勢力である「任那日本府」について書いていく。
任那日本府
早速だが、雄略天皇の時代に高麗(おそらく高句麗のこと)と新羅が戦う記述があるが、その時新羅は任那王に救援を求めて、日本府の将軍たちを送るよう要望したという記述がある。任那とは韓国の南部の中央部の地域のことであり、加羅、または伽耶というこの地域の諸国連合の異称であるとか、諸国連合の中の一部だと言われている。しかし問題は「日本府」というものが記述されていることである。この「日本府」は欽明天皇の部分でも出てきているものである。日本府は安羅に所在しており、新羅に滅ぼされた任那を復興させようということを百済が中心になって進める時に名前が出てきます。
この「日本府」は、
・日本が朝鮮にたびたび出兵していること。
・前方後円墳と思われる古墳が見つかっていること。
・日本でとれたヒスイが朝鮮で見つかっていること。
・倭王武が宋から使持節都督倭新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王という地位に任じられていること
ということなどから、倭が朝鮮半島で影響力を持ち、任那日本府は朝鮮半島での拠点だと考えられている。しかし、日本書紀の欽明天皇のところの記述では日本府はかなり独立したものであり、新羅と通じたり、百済が日本府の人の更迭を懇願しているのに更迭出来ていなかったりする様子が描かれている。日本府は六世紀前期において完全に倭の支配のもとにあったとは思えないが、倭が朝鮮半島において影響を持っていたことは確実だろう。その後は任那の復興が実現することはなく五六二年には加羅の諸国連合は、新羅によって完全に征服されてしまい、以後倭は朝鮮半島の拠点を失っている。
第二項 大和王権の内政
タイトルに内政と書いたが、大和王権内での豪族同士の政争などを書くつもりはないので、当時の社会について書いていく。
大和王権の時代、つまり三世紀末から六世紀末は、古墳時代と呼ばれる時代とほぼ重なっている。古墳時代とはその名の通り、全国的に古墳が多く造られた時代である。しかし、初期から終末期までただ同じような古墳を造っていたのではなく、時代を経るごとに大きさ、形状、古墳の持つ意味などは変化している。では、それらが具体的にどのように変化していったのかを初期から順番に書いていく。
まず前期についてであるが、大和王権は完全に複数豪族による政治連合であり、王権の力はそこまで強いものではなかった。
また古墳時代において、古墳は大和政権の一員であることを証明するもので、政治面及び精神面での象徴物であった。前期には前方後円墳が多く造られたが、これはその地の首長クラスの家柄の人物の造るものである。つまり、大きさから地位を量ることもできる。例えば吉備氏、毛野氏などは巨大な古墳を造っているが、記紀においても地方の大豪族となっている。
また、しばらくすると朝鮮に対して戦いを挑むようになったのは、朝鮮との関係を書いた前項から分かるだろう。四世紀後半頃からは、このように出兵することで威信を高め王権の力を強めようとしていた。しかし、出兵するには地方の豪族たちの協力が必要だったので同時に豪族の地位もあがった。
しかし、五世紀後半頃から全国的に大型の前方後円墳の造営が行われなくなり、変わって円墳、方墳などが中心になり大きさも小型化したが、大和王権の天皇稜のみは大きなものを造り続けた。これは大和王権の権力が強まったために豪族に対する規制が強化されたことや、首長層ではない下位層を支援したので下位層の上に立っていた豪族の力が落ちたことなどが理由として考えられている。また、この時期は朝鮮への出兵がかなり行われているので、王権の力を強めようとしていることがうかがわれる。
雄略天皇の死後から継体天皇までは、国内が不安定だったことが日本書紀から伺える。この時代は在位期間の短い天皇たちが出てきて継体天皇に至り、仁徳天皇からの血統はそこで途絶えてしまう。継体天皇については第三章で述べているのでここでは省略する。
では六世紀の古墳を見ていく。この時期は群集墳が発達している。群集墳とは、その名の通り小さな古墳がいくつも集まっているものである。小型化し数も増えたが、まだ地域によって差があったことが分かっている。そのため、大和王権が中央集権を目指して全国を一律に直接支配しようとした様子がうかがわれるが、支配はまだ途中であり完全なものにはなっていない。また、この時代に全国に多くの天皇直轄領を置いている。
これ以降の古墳は形状からいうと古墳と言えるが、すでに推古天皇の時代となり日本の原始国家ができているため、古墳は前述した「政治、精神の両面での象徴」とは言えない。よって、推古天皇までに大和王権と呼ばれたものは原始国家になり大和王権は終わったと言えるだろう。