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其の三 天皇のルーツ
第三章 天皇のルーツ
第一項 神武天皇
実在性
神武天皇は、初代天皇としてその名を知られている有名な天皇である。初代天皇というだけあって、記紀に記されている事績は非常に素晴らしいものである。また、神武天皇は、記紀に天照大御神に代表されるような八百万の神の織り成す日本神話と現在の天皇に繋がる皇室の間に立つ重要な存在として記されている。
この神武天皇だが、戦後に入ってから、その存在を度々疑問視されている天皇である。そのため、記紀等に記されている神武天皇の事績は、史実というよりも、伝説や文学として読まれることが多い。しかしながら、もちろん現在でも神武天皇存在論は根強くある。忘れないで頂きたいのは、神武天皇が存在したかどうかというのは賛否両論あり、どちらと断定することもできないということである。
神武東征
記紀に記されている神武天皇の事績というのは、一般に神武東征と呼ばれる天皇の東進である。神武天皇はもともと日向国(現在の宮崎県と見られるが、諸説あり)に生まれ、日向国で育った。しかし、天皇は45歳のときに東方の「美き地(よきくに)」である大和国(現在の奈良県)に都を構えるために東進を始めた。この東進こそがいわゆる神武東征である。なお、神武東征については古事記と日本書紀の両方で記されており、大略は大体同じであるが、多少違う部分があるようである。
神武天皇は彦波瀲武??草葺不合命(天照大御神の玄孫)と玉依姫命の間に4人兄弟の末っ子として生まれ、日向国で生まれ育っている。天皇は生まれながらにして賢く、気性もしっかりとしていて、15歳で皇太子(当時の皇太子というものがどのようなものかは不明)になったという。そして、紀元前667年、45歳のときに兄弟や皇子に対し「東の美き地である大和に都を構えよう」と宣言し、東進することにした。皇太子は大軍を率いて宮崎国を出発し、速吸之門(現在の豊予海峡)にてであった椎根津彦を案内人として迎えた。その後、皇太子軍は現在の広島県、岡山県等を経由し、浪速(大阪府)に到着した。皇太子軍はなおも大和国を目指して東進を続け、遂に生駒山の付近に到着した。
しかし、皇太子はこの地を支配する豪族である長髄彦と戦うこととなってしまう。戦いは皇太子側が不利であった。この戦いにおいて兄の五瀬命が流れ矢を浴びて負傷したことを知った皇太子は、「日の神(天照大御神と見られる)の子孫である自分が日の方角(東)に向かって戦うことは天の意思に逆らうことだ」と悟り、軍勢を引き返した。
皇太子は海へ戻り、紀伊半島の南を迂回して熊野付近から上陸して大和へと向かうこととした。しかし、その途中で、流れ矢を浴びて負傷していた五瀬命が亡くなってしまう。なんとか熊野に到着しても、暴風雨に遭ってしまった。そればかりか、東征が思うように進まないことを憂えた兄の稲飯命と同じく兄の三毛入野命が自殺してしまう。なんとか上陸を果たした軍勢も、土地の神の毒気に当たり、倒れてしまった。
皇太子の東征が思うように進んでいないことを憂えた天照大御神は、建御雷神(武甕槌神とも)と相談し、霊剣「布都御霊(?霊とも)」熊野の住民である高倉下に「この剣を高倉下の倉に落し入れることにしよう。お前は朝目覚めたら、天つ神の御子に献上しろ」という言葉とともに授けた。高倉下がこの剣を皇太子に授けたところ、倒れていた軍勢は快復し、皇太子軍は大和国を目指して山中へと行くこととなった。
しかし、皇太子軍は道のない山中で迷ってしまい、再び進軍不可となってしまう。そこで天照大御神は皇太子に道案内として八咫烏を授けた。八咫烏に導かれ、皇太子軍は何とか大和国に入ることが出来た。大和国に入ってから自らに従わない豪族を次々と倒していった皇太子は、ついに長髄彦と戦うことになった。またしても戦いは皇太子軍の不利という展開になった。しかし、天皇が連戦しても勝てず苦戦しているところに、1羽の鵄が現れ、皇太子の先に止まった。するとその鵄は黄金に光り、長髄彦の軍は混乱し始めた。皇太子軍は混乱した長髄彦の軍に襲い掛かり、見事これを打ち破った。
その後、自らに刃向かってくる豪族たちを退けた皇太子は、紀元前662年2月、遂に大和国を平定するに至った。皇太子は、翌年、媛蹈鞴五十鈴媛命を皇后と定めた。そうしてその翌年の紀元前660年の正月に橿原宮で初代天皇として即位した。東征を始めてから7年後のことであった。
即位後は、皇后である媛蹈鞴五十鈴媛命との間に3人、妃吾平津姫との間に2人の皇子をもうけた。媛蹈鞴五十鈴媛命との間には、日子八井命、神八井耳命、神渟名川耳尊(後の綏靖天皇)を、吾平津姫との間には手研耳命、岐須美美命(古事記のみに記されている)をもうけた。
神武天皇は神武4年(紀元前657年)、ついに日本全土を平定するに至った。日本全土を平定した天皇は、鳥見山(奈良県桜井市)に皇祖天神を祀った。神武42年(紀元前619年)に神渟名川耳尊を皇太子と定めた。神武天皇は神武76年(紀元前585年)に137歳(日本書紀では127歳)で崩御した。その崩御の後は、畝傍山東北陵に葬られた。
第二項 古代天皇の実在性
本項では、主に古代天皇(ここでは、初代神武天皇〜9代開化天皇とする)の実在性について扱う。これらの天皇は、記紀においては当然実在するとされている。しかし、後述する様々な理由から実在しないことが主張され、通説となっている。ここでは、彼らが本当に架空の存在なのか、そうならば何故創作されたのかということを検証する。
神武天皇
記紀に忠実な立場をとると、九州から奈良に侵攻して紀元前660年に朝廷を開いた建国の父ということになる。しかし、そのような考古学的証拠は見つかっていない。また、彼の業績は神話的要素が強く、人間のしたことではなく神話と捉えるべきだと考えられる。
しかし、東征神話が完全な架空のものだとは言い切れないだろう。西からやってきた何らかの勢力が大和を都とする大規模政権を打ち立てた、という歴史的事実がこの神話の背景になっているのではないかと考えることはできる。
また、神武天皇が崇神天皇と同一であるという説は支持を集めている。(後述)
「欠史八代」
ここでは2代〜9代の8人の天皇の実在性・非実在性を記述する。
・業績の欠如
まず、記紀のこれらの天皇についての記事を読むと生没年や配偶者、埋葬地などの基本的条項しか記述されていないことが分かる。後代の天皇の記事では業績が詳しく記されているにもかかわらず、である。これでは創作を疑われても仕方がないだろう。
また、10代の崇神天皇からは詳しい業績が書かれ始める。これは非常に具体的で詳細な物であり、崇神天皇の名前も不自然ではないため、9代以前の天皇の存在は10代の崇神天皇から始まった皇室の歴史を古く見せかけるための偽装工作であるという主張が多くの支持を集めている。この主張では崇神天皇と神武天皇を同一視している。
・崇神天皇の名前
10代崇神天皇の名が「ハツクニシラススメラミコト」でありこの名は初めて国を治めた天皇であることを示していると考えられる。(崇神の名の意味は「しっかりした国を初めて治めた」である、という説もある)そのため、それ以前の天皇の非実在性が疑われる。
・考古学的証拠の欠如
今日では全ての天皇の墓が宮内庁によって比定されているが、9代までの天皇の陵墓を考古学的に見ると、明らかに埋葬されているはずの天皇とは年代がずれているのである。また、9代以前の天皇が埋葬されていると思われる古墳も見つかっていない。
・不審な相続
これらの天皇はみな父子相続である。我々が触れることの多い戦国時代などでは家というものが親から子へと相続されることが多いが、古代では親子ではなく兄弟で相続されることが普通であった。そのため、これらの天皇は父子相続が一般化した記紀編纂の時代に創作されたのではないかと疑うことができる。
・実在の人間らしくない名
天皇の名前(和風諡号、日本風のおくり名)から検証する。
欠史八代の天皇の名前については、みな疑問点がある。具体的には、名前の一部についての後世の天皇からの引用した疑惑や、原始的な神の名を人(天皇)らしくする為に称号をつけた疑惑である。まず、これら全ての天皇の名前は原始的な神名と人間化する為の称号を組み合わせて作られたという説がある。例としていくつかの天皇の名を見てみよう。
<綏靖天皇>
カムヌナカハミミ
→カム+ヌナ+カハ+ミミ
カムは神、ヌナは美しい、カハは川、ミミは神性(霊的な物)を表すと考えられる。
<懿徳天皇>
オホヤマトネコスキトモ
→オホヤマトネコ+スキトモ
オホヤマトネコは美称、スキトモはスキツミという鍬の神ではないかと考えられる。
<孝霊天皇>
オホヤマトネコヒコフトニ
→オホヤマトネコ+フトニ
オホヤマトネコヒコは美称、フトニは末尾に神性を表す「ニ」が有るので神であるとも考えられる。
このように、欠史八代の天皇は性別すら定かではない原始的な時代の神や精霊を基に作られたのではないかと考えられる。
・名前の転用疑惑
欠史八代の天皇の中には、和風諡号が7世紀や8世紀の天皇の物を転用したのではないかと疑えるものである場合がある。以下、具体的に見てみよう。
<孝昭天皇>
ヤマトタラシヒコクニオシヒコ
→下線部が舒明天皇・皇極天皇の名にも含まれる。
<孝霊天皇>
オホヤマトネコヒコフトニ
<孝元天皇>
オホヤマトネコヒコクニクル
<開化天皇>
ワカヤマトネコヒコオホヒヒ
→以上三人の名の下線部が、持統天皇・文武天皇の名にも含まれる。
下線部が共通することを指摘したが、下線部の語は後世風の称号である。つまり、記紀編纂時に近頃の天皇の名を参考に創造された可能性を指摘できる。
第三項 崇神天皇
崇神天皇
第10代の天皇で、実在可能性が認められる最古の天皇であるとされている。
・記紀に置ける業績の記述
崇神天皇は先代までの天皇と違って、豊富な業績が記録されている。それは四道将軍と呼ばれる四人の将軍を各地に派遣して朝廷に従わない勢力を討伐したり、戸口調査を行ったりということである。つまり、全国的でしっかりとした統治を行った初めての天皇ということになる。
また、注目すべき点として、「人間らしさ」がある。崇神天皇についての記述では、在位時に大規模な疫病が有ったことが記されている。疫病は神ではなく人間たちを襲うものであり、人間の時代らしい事象と考えられる。
このように詳細な記述がなされているため、崇神天皇は実在するのではないかと考える人は多い。
・特徴的な名前
崇神天皇のころの皇室の人々の名前には、「イリ」という語がしばしば含まれる。崇神天皇の名はミマキイリヒコ、次代の垂仁天皇の名はイクメイリヒコである。その他の皇族も「〜イリヒコ」や「〜イリヒメ」という名が多い。
なぜこんなことが注目されるかというと、このような名前は他の時代の皇族にはみられないのである。そのため、崇神天皇や垂仁天皇の時代の人々は記紀編纂時に創作された存在ではなく、実在すると考えられることが多い。
しかし、イリという語の意味は分かっていない。崇神天皇は満州からやってきて日本を征服した騎馬民族であると主張する人は、侵入を意味する「入り」であると言う。また、尊称だとか半神半人性(人に近い神)を表すという説もある。
なお、「イリ」が半神半人性を表すとする人は、崇神天皇は半神半人の存在で実在しないと主張している。しかし、崇神天皇とそれ以前に大きな違いが有ることは皆一致している。
・考古学的実在性
日本最古の本格的前方後円墳である箸墓古墳(奈良県桜井市)は三世紀中ごろから後半に作られたと考古学的に考えられているが、これは崇神天皇の時代のものである。また、他の大規模古墳も築造年代は三世紀後半以降であると考えられている。
このほか、箸墓以後に大和の政権が急激に発達したことを示す考古学的証拠が見つかっているため、このころから大和に本拠を置く大規模政権が有ったのではないかと考えられている。
・神武天皇との同一説
現在支持を集めている説として、神武天皇と崇神天皇は同一であるというものがある。というのも、神武天皇は即位前の業績(東征)が詳しく記述されており、崇神天皇は前述したとおり即位後の業績が詳細に記されている。
そこで生まれたのが、本当の初代天皇は即位前・即位後という区切りで神武と崇神の二人に分解されたという説だ。このような工作が後世になされた原因としてあげられるのは、皇室の歴史を古く見せかけること、そして初代天皇以前の歴史の隠ぺいである。記紀が作られた理由として、皇室の日本支配の正当化というものが有ることは前述したとおりである。そのためには、皇室が一豪族から成り上がったことは隠す必要があるだろう。
・崇神新王朝説
記紀では、皇室は万世一系(途中の王朝交代は無く、初代からみな同じ一族)であるということになっている。これを疑う説は多く出ているが、その一つに、本当は神武天皇らと血縁関係にない崇神天皇が新王朝を建てたというものがある。
葛城王朝説と呼ばれるこの説は、神武天皇から9代開化天皇はもともと奈良に居た豪族であり、崇神天皇が率いてきた九州からの軍勢に滅ぼされたと主張している。(なお、崇神天皇が邪馬台国(または狗奴国や奴国)の王であるとか、滅ぼされた神武天皇の王朝が邪馬台国だとか主張する人も多いが、その解説には膨大な字数を要する為今回は省略する。)
そして、後世の朝廷は「自らの統治を確固たるものにする」という歴史編纂の目的に反する事実であるそれを隠すために、古代天皇の業績を白紙にしておいたとしている。
しかし、崇神以前にも大和に大規模政権が有ったとか、崇神の居た3世紀ごろに西日本から大和に大規模な移動が有ったという考古学的証拠は見つかっていないため、この説は疑問視されている。
垂仁天皇
崇神天皇の息子で、次代の天皇となった。朝廷の版図を広げたと考えられているが、実在しないという説も主張されている。
第四項 12代〜14代の天皇たち
景行天皇とヤマトタケル
12代天皇で、ヤマトタケルの父。記紀において、彼の時代の記事は息子であるヤマトタケルについてのものがほとんどを占めており、彼はこれといった業績を残していない。
ヤマトタケルは、各地で朝廷に従わないものを討伐した英雄として伝えられている人物である。しかし、古事記と日本書紀で系図が大きく異なること、途中で名前が変わること、墓が複数あることなどから、複数人の英雄の業績を組み合わせて皇室の威厳を増すために創作された存在ではないかと疑われている。もしそうであれば、同時代に在位していたこの天皇の存在は、ヤマトタケルを創作するときのつじつま合わせとして創作されたものではないかと疑うことができるだろう。
成務天皇
13代天皇。記紀において、彼の時代の記事は非常に少ない。よって、彼の存在は年代のつじつま合わせのための創作ではないかと考えられている。
また、成務天皇は侵略してきた応神天皇に敗死したため業績を消去されたという説もある。(後述)
仲哀天皇と神功皇后
14代天皇でヤマトタケルの子、神功皇后の妻。
神功皇后は、彼の死後政務を執り朝鮮諸国との戦争に勝利したヒロインとして伝えられている。しかしその業績はずいぶんと神がかり的であり、また7世紀の朝鮮諸国との戦いとも類似する為、7世紀の事件をモデルに創作されたという主張も多い。もしそうであれば仲哀天皇はその創作のつじつま合わせのための架空の存在であると考えられる。
また、日本書紀に記述された年で考えると彼は父が死んでから長いこと経った後に生まれている。これはヤマトタケルまたは彼が創作された存在であることを示しているのではないか。
不審な和風諡号
三人の天皇の実在性は確かなものではない、と前述したがそれを補強する論拠としてあげられるものに、彼らの和風諡号の問題がある。
彼らの和風諡号を見てみよう。
景行天皇→オオタラシヒコオシロワケ
成務天皇→ワカタラシヒコ
仲哀天皇→タラシナカツヒコ
見て分かる通り、「タラシ」と「ヒコ」という語が含まれている。この語はいずれも敬称である。
さて、いずれの語も34代舒明天皇、35代皇極天皇の名にも含まれている。つまり、これらの語は7世紀に使われていた称号であると考えられる。そのため、この三人は7世紀以降に創作された可能性が出てくるのだ。
第五項 河内王朝
河内王朝は古墳時代中期河内に大和よりも巨大な古墳(大山古墳など)が造られたことから、大和から河内に拠点が移ったとしている。応神天皇からはじまった理由は以下のものがあげられる。
・河内の方に都を置いた記述がある最初の天皇だから。
・出生が伝説的。
簡単に分かるのはこれくらいだと思う。一応他にも朝鮮の史書と日本書紀の対比から応神天皇の在位していた時期を河内に巨大な古墳が造られた時期と重なるとした説もある。また応神天皇の出生が伝説であることから仁徳天皇と同一人物であったという説もある。
では河内王朝とはどこから来たものなのだろうか。これは大きく分けると二つになる。具体的に書くと以下のようになる。
・今までの王朝つまり大和地方の王朝と同じ系統の王朝であるか。
・大和の王朝とは全く別系統のものであるか。
戦前は記紀の内容を重視したので前者の方が通説だった。応神天皇や仁徳天皇は崇神天皇の子孫であり河内に拠点を移した理由は、朝鮮半島にまで勢力を伸ばしたため大和よりも便利な河内に移ったからだという。しかし戦後になり記紀に対して批判が出るようになると後者のような意見が出はじめた。その理由としては以下のものがあげられる。
・応神天皇、仁徳天皇、反正天皇は河内周辺に都を置いており、履中天皇は本来の名前の中に難波に関係のある大江という地名を持っているなど河内、難波と関係を持っている。
・崇神、応神など後につけられた名称ではなく天皇の本来の名称の中で崇神天皇、垂仁天皇は「イリ」の称を持ち、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇は「タラシ」の称を持ち、応神天皇、履中天皇、反正天皇は「ワケ」の称を持っている。細かく見ると景行天皇は「ワケ」の名も持ち、仁徳は「ワケ」を持たないなど問題もあるが、全体的に応神天皇とその後の数代の「ワケ」系は「イリ」や「タラシ」と違う系統の天皇と言える。そして「ワケ」系の天皇は上記のように河内と関係を持っている。これは河内の王朝が大和の王朝とは別系統のものだということを示していると考えられる。
・応神天皇の母である神功皇后は神の言葉に従って新羅に大勝した神秘的な女性であり、その息子である応神天皇もまた神秘的な存在であり王朝の祖にふさわしいものであると言える。また仁徳天皇も聖人君子として描かれているなど王朝の祖にふさわしい人物であるかのようにされている。
・五世紀以降王朝を構成する豪族で河内を本拠とする豪族が多い。
では仮に河内の王朝がそれ以前のものと別系統だとするとその王朝はどこから現れたのだろうか。これも大きく分けると二つになる。
・新勢力は大阪平野以外の地域から侵入してきた。
・新勢力は大阪平野周辺に拠点を持っていた勢力。
前者は九州説と騎馬民族征服王朝説に分ける事が出来るが、騎馬民族征服王朝説に関しては後に触れるので九州に新勢力の起源を求める説について書いていく。
九州説で大阪平野に侵入してくる勢力は「魏志倭人伝」の狗奴国の後裔だとしている。何故狗奴国が畿内まで侵略した理由は以下のものである。
・日本書紀に書かれている伝承の中に仲哀天皇が熊襲を討伐しに行って矢に当たって崩じたというものがある。これは狗奴国と戦闘して敗死したと解釈しこれによって狗奴国は一転攻勢に転じ畿内に進出したとしている。
・応神天皇は筑紫で生まれたとされている。
・神武天皇が日向を出発して大和を平定し建国したと書かれている。
この説の最初の理由は若干胡散くさいように感じられた。日本書紀も本文では仲哀天皇は神の祟りで死んだことになっているし、今まで攻め込まれていたのに九州から畿内に攻め上がり大阪平野を制圧した後、大和の王朝を攻め滅ぼす程の軍事力を有していたのか、仲哀天皇の死から応神天皇の即位まででも半世紀以上あるものの疑問だ。しかし応神天皇が筑紫で生まれたという話と神武天皇の東征神話を説明するなら非常に説得力がある。
一方後者の方はそこまで明確な理由があるわけではないように感じられる。九州説を否定し消去法的に出している。確かに普通に考えたら大阪平野周辺の勢力が瀬戸内海を支配し力をつけて大和の王朝を圧倒したというのも十分納得できる。
結局のところ河内王朝は三輪王朝の延長上の存在なのか、別系統のものであるのかということもまだ解明されていないので何とも言えない状況である。
しかし允恭天皇のころから再び大和に拠点を置くようになっている。この時期の天皇の古墳は河内や大和に造られているが皇居は大和に置かれた記述があるのでやはり拠点は大和に置かれたと思われる。移動した理由としては以下の事があげられる。
・平野に大きな川が流れる河内よりも大和の方が、自然災害が少なく有利。
・三輪王朝を完全に圧倒し大和地方を支配下に置いた。
騎馬民族征服王朝説
途中で名前だけ出てきていたこの説について書きいていく。この説は通説ではないものの比較的知られている有名な説なので書くことにした。具体的にどのような説であるのかというと、以下のような物である。
・東北アジア等の騎馬民族扶余、高句麗、百済の王侯貴族が朝鮮半島南部の任那に来てそこから崇神天皇を中心にして騎馬民族集団が北部九州を侵略しに来た。北部九州を侵略した崇神天皇は日本国を建国した。この勢力は応神天皇の時に東征し大阪平野で二度目の建国をした。これが今の皇室になっている。また騎馬民族は農耕民族を支配するうちに同化していったとしている。
また、その理由としては以下の事があげられる。
・朝鮮から北九州への渡来は天孫降臨話に対応し北九州から畿内への進出は神武東征の伝説にそれぞれ対応している。
・古墳時代前期までは乗馬の習慣は無かったのに5、6世紀急に広まった。
・前期の古墳では副葬品は実用的なものより呪術的な鏡、剣、玉などが中心だったが中期古墳では鎧、兜、馬具など実用的なものが増えた。
古墳が巨大化し竪穴式石室という古墳の上から穴を掘り、棺を埋めて土をかぶせる方法から、横穴式石室というひとを葬る部屋に通路を付けて追葬もできるようにしものが広がる。そしてこれ等の変化が突発的に起きたのは大陸から騎馬民族がやってきたからに違いないとしている。
また変化が起きたのは突然であることも強調している。
しかし反対意見も多い。それは以下のような物である。
・騎馬民族や遊牧民族なら確実に知っているはずの去勢の技術が日本ではほとんど知られていなかった。
・北九州の遺跡から発見された馬具の量は大した数ではなく騎馬民族がいたのか疑問。
・突発的に起きたと主張する考古学的な変化も実際は長い年月を経て変化したものであり、突然起きたもので無いなら他の理由でも十分説明できる。
他にも挙げきれないほど多くの反論がある。これ等の事からしても騎馬民族征服王朝説は雄大な仮説ではあるが実際にあったとはとても思えないと考えられている。
第六項 継体天皇
一生
継体天皇は5世紀後半から6世紀前半にかけて在位していたとされる天皇で、第26代の天皇である。皇室のルーツを探る上で、ほぼ確実に話に絡んでくる天皇である。というのも、記紀によれば、継体天皇の前代である武烈天皇までは、仁徳天皇の流れを汲んでいるが、継体天皇は応神天皇の5世の孫というだけで仁徳天皇の家系を汲んでいないのである。これはつまり、武烈天皇の崩御により、仁徳天皇の家系が断絶を迎えたということである。
継体天皇は450年(允恭39年)(古事記では485年)に彦主人王と振媛の子として近江国(滋賀県)に生まれた。継体天皇は男大迹王という名で母の故郷である越前国(福井県)を統治していた。しかし、506年(武烈8年)に武烈天皇が皇子女をもうけないまま崩御したため、仁徳天皇の系統は途絶えてしまう。そして、次の天皇として白羽の矢が立った男大迹王が翌年即位した。継体天皇が即位したのは507年のことだが、継体天皇が都をおいたのは526年(継体20年)であり、この間にヤマト王権で混乱が生じていたことを示唆している。
継体天皇は、武烈天皇の姉(妹説あり)の手白香皇女を皇后としている。これは、継体天皇が手白香皇女と婚姻関係を結んで仁徳天皇の系統に入るといういわば入り婿的な皇位継承であったことを示している。継体天皇は、皇位継承にあたって、仁徳天皇の系統と関係を持ったのである。
継体天皇は531年(継体25年)(古事記では527年)、皇太子の勾大兄尊に皇位を譲り、崩御した。
継体新王朝説
記紀の表現を忠実に捉えるならば、武烈天皇の崩御と同時に仁徳天皇の系統は断絶し、次代天皇として応神天皇の5世の孫である男大迹王が即位し、継体天皇となったということである。これはいわゆる万世一系というものであり、この場合は皇室のルーツを継体天皇以前の天皇、少なくとも応神天皇までは遡れることを示している。
しかし、現在では継体天皇が皇位を奪って即位したとする継体新王朝説という説もある。これは、三王朝交替説と呼ばれる説の一部である。三王朝交替説とは、崇神天皇を祖とする王朝、応神天皇を祖とする王朝、継体天皇を祖とする王朝の三王朝が古代日本に存在していて、それらが交替して古代日本を統治していたのではないかという説である。この説によると、継体天皇が応神王朝から皇位を奪ったことになり、継体天皇は応神天皇の流れを汲んでいないということになる。この説によると、皇室のルーツは継体天皇までしか遡れないということである。この説の根拠としては、以下のようなことがあげられている。
・武烈天皇はかなりの暴君として描かれているのは継体天皇の皇位簒奪を正当化するものだ。
・継体天皇が大和に入るのに二〇年もかかっているのは河内王朝の力が強く時間がかかってしまった。
継体天皇がそれ以前の皇統と断絶した存在であるかどうかに関わらず、皇室のルーツを探る上でこの天皇が重要な位置にいることは確かであろう。