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其の一 記紀概説

 
第一章 記紀概説
第一項 記紀以前の歴史書
「日本最古の歴史書は?」と聞かれると、古事記の名を挙げてしまう人は多いだろう。しかしそれは間違いであり、古事記は「現存する」日本最古の歴史書である。古事記以前にもいくつかの歴史書が有ったことは、古事記と日本書紀(以下、記紀)にそれらについての記述がある為わかっている。
・国記
620年に聖徳太子と蘇我馬子が編纂した。日本や豪族の歴史について書かれていると考えられている。現存しない。
・天皇記
国記と同時に作られた。皇室の系譜が書かれていると考えられている。大化の改新の時に焼失。
・旧辞
各豪族の家に伝わってきた伝承の本だとされる。(つまり1つの本ではない。)記紀はこれを基に書かれたようだ。
・帝紀
天皇記と同じ内容だと考えられている。天皇記が焼失した後の681年に作られた。


第二項 古事記の成立
当時の状況(歴史書の面)
古事記序文には、天武天皇が「旧辞は各家に受け継がれる間に改ざんされてしまい、修正しないと分からなくなる」と述べたとある。確かに、歴史書が各豪族の家で受け継がれているなら改ざんされる可能性は十分ある。歴史書を改ざんして先祖がいかに皇室に貢献したかを主張すれば、自らは高い位に登れるかもしれないのだ。そのため、「正しい歴史」をまとめておくのは必要なことに思える。

当時の状況(政治の面)
当時の日本は律令国家建設の真最中であった。具体的には、首長の独裁ではなく法律に基づいた政治を行うようにすることだ。白村江の戦いで大敗した日本は、防衛のため近代化が急務だったのだ。
しかし、近代国家には律令だけでなく歴史書も必要である。天地創造の頃から皇室が日本を支配しているという内容の歴史書は、皇室が日本を統治することの正当性を示すことができる。それにより人民の統制を行うことができるだろう。
古事記もその役割を持っていた。古事記は上・中・下の三巻に分かれているが、上巻は全て神話(神武天皇より前)に充てられている。日本書紀ではこのような分量は割かれておらず、古事記がいかにこの意味を持っていたかをうかがわせる。


第三項 古事記の内容
天武天皇が発案し、太安万侶が稗田阿礼の暗踊する帝紀や旧辞を基に書いた。天武天皇の死後作業が中断し、完成は天武天皇が死んでから25年たった712年である。天武天皇の死後は遷都や律令制定などで忙しかったからではないか。
・序文
古記録について、天武天皇の編纂命令について、編纂作業について。
・上巻
日本の誕生〜神武天皇生誕。所謂「日本神話」。イザナミ・イザナギ、スサノオ、オオクニヌシらが登場。
・中巻
神武天皇〜15代応神天皇。10代崇神天皇以降は意見が分かれるとはいえ、実在が怪しい天皇たちの話。神武東征、スサノオ、神功皇后などが登場。
・下巻
仁徳天皇〜推古天皇。実在濃厚な天皇。

第四項 日本書紀の成立
概要
天武天皇は、天武10年(681年)3月17日に親王、臣下多数に命じて「帝紀及上古諸事」編纂の詔勅を出した。これは、皇室の歴史に関する書物を体系的に編纂するという一大文化事業であった。後に完成した「日本書紀」編纂事業はこのとき開始したと言われている。
日本書紀を編纂したのは舎人親王であったことが、いわば「日本書紀」の続編ともいえる「続日本紀」の記述によって明らかになっている。舎人親王は天武天皇の皇子であり、天武天皇の意思を受け継ぐことができる適任者と天武天皇は考えたのだ。 また、天武天皇は、稗田阿礼に帝皇日継と先代旧辞(帝紀と旧辞)を詠み習わせた。後に太安万侶に筆録されて「古事記」となる。いずれも完成は天武天皇の没後になった。「日本書紀」も「古事記」も並立して作られた書物なのである。古事記のほうがはやく完成したため、2つに明確な前後関係を想起する方が多いだろう。事実、わが国の日本史の教科書は2つがまるでまったく違う時代に作られたかのように書いている。しかし、712年に「古事記」が完成してから720年に「日本書紀」が完成するまではたったの8年であるということは注目すべきである。ほとんどおなじようにつくられた「古事記」と「日本書紀」だったが、2つには多角的に見てかなりの違いがある。その違いを挙げていこう。

・「古事記」は内容が一貫している。「日本書紀」は本文の後に注という形で異伝を書いている場所が多数ある。
これに関しては、「日本書紀」が合議・分担という形で編纂されたのに対して、「古事記」が、天武天皇ひとりの意思に大きく影響されるなどしてつくられたという、いわば、個人的かつ、編纂が閉鎖的に行われていた書物であるという考えがある。
「古事記」に関しては、その存在すら疑われるほどの、謎が多い書物であるために断定が不可能だと思うが、「日本書紀」に関しては当時としては画期的な歴史書であったことは確かだと思う。画期的であるがゆえに、その編纂年代がかなり新しいとする説もあるが、このような異伝すらも記す方式をとったことの理由は、それまでの記録、史料の乱雑さや適当さにあると思う。それまでの日本は文字が完成している国ではなかったことは研究によって明らかである。

・「古事記」は内容が非常に短く、内容が皇室に関することに限られる。対して「日本書紀」の内容は非常に長く、内容は国家の事件全般を扱っている。
前提として「古事記」は3巻(うち神代が1巻)、「日本書紀」は30巻(うち神代が2巻)と、2つの歴史書は規模があきらかに違っているのである。
かなり大雑把な分け方となってしまうが、「日本書紀」は国家全般についてを扱う正史なのである。「古事記」に関しては天武天皇の命をうけてつくられたものではあるものの、勅撰とはいえないというのが現在の学会での共通認識であり、「古事記」は皇室の歴史を個人的な意図で編纂したもの、「日本書紀」は国家の歴史を政治的な意図を持って編纂したもの、と考えられる。「古事記」は皇室の偉大さを記したものであり、政治的な意図が強く存在するとは考えにくいということである。
「日本書紀」に関しては、まず、歴史書編纂事業という行為においてその意図として必ず考えられるであろう自己の正当化が考えられる。これに関してはその政治性の程度において差があれど、「古事記」の意図と共通するところがあると思う。
しかし、「日本書紀」においてもうひとつ考えられるのが、日本という国家の形成である。それはどういうことか?その問いを考えるうえで大事なのは当時の日本の外交状況である。日本は天智天皇の時代に白村江の戦いで大敗し、朝鮮半島への影響力を急速に弱めると同時に、唐の脅威におびえるような状況に陥ってしまった。事実、唐の軍が日本に上陸することもあった。さらに、その際は物資を貢ぐことで撤退してもらうなど、日本は対外的に非常に弱い国になっていた。天智天皇が防人を配備し、水城を築くなど日本の防衛力を高めると同時に、近江令といった法整備も行っていたのは、ひとえに日本という国家をつくりあげ、外国に対抗するためである。天武天皇もその路線を引き継いでいたということは、彼の、軍事力増強や飛鳥清浄御原令の整備などから明らかであり、その一環として、唐にならって国家の歴史書をつくり、内部には日本という国家を意識してもうい、外部には歴史書を作る国家であるとアピールしようとしたと考える。

・「日本書紀」と「古事記」は神話観が大きく異なる。
「古事記」は、神の世界について、高天原という言葉を使っており、神の世界からすべてが生まれたと考え、地上も神の意思によってつくられたものとするなど、神をこれ以上のないほど高くみている。しかし、「日本書紀」は混沌から神が生まれ、地上も陰陽の作用によって生まれたと考えるなど、いくばくか道教的な思想のもとで神をみており、地上の世界と神の世界とで明確な身分の差があるとはしていない。「古事記」も「日本書紀」も、地上の世界を統べるのはいわずとしれた皇室である。
以上のことから考えられるのは、「日本書紀」は、皇室は陰陽の理という自然によって生まれたものであり、神という存在も関係なく皇室が世を治めるのは当たり前であるとしているのである。これは、結局は天皇がこの世を動かす神であるとしていることにつながるのではないかと考える。「古事記」では、皇室すらも高天原に管理されているように思える。

現在の日本書紀研究
「古事記」と「日本書紀」の比較を終えて、現代の研究からみえてきた「日本書紀」について書きたいと思う。「日本書紀」を、倭習とよばれる日本的な漢文の使い方ばかりのところと、そうした使い方がまったくないきれいな漢文のところとでわけることができることはご存知だろうか。この説は学会でも受け入れられており、日本人が執筆したところと中国人が執筆したところにわかれることをあらわしている。中国人は唐の捕虜である続守言や薩弘格などといった,唐の言語や発音を教える音博士として朝廷に仕えた渡来人一世。日本人は唐に留学した学僧である山田史御方であると考えられている。唐から来た音博士たちは中国の儒教の経書の読み方を教えたり、律令の整備にも関わったりしていることから、日本が中国に追いつくために働かされていたということは明らかであると思う。そして彼らが「日本書紀」の編纂事業にかかわっていることは「日本書紀」の編纂事業が中国に追いつくための政策だったことの証拠のひとつになるのではないかと思う。 「日本書紀」には中国人が書いているはずが、急に日本人の使い方が多発してくる場所があることが指摘されている。それは大化の改新にあたる記事に存在している。つまり、「日本書紀」の大化の改新の記事は改ざんをうけているということである。

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