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薩摩 〜躍進の原動力〜

目次

〇序論 薩摩戦国志

〇本論
◎鹿児島の地理と特性
 鹿児島の火山
 鹿児島の地理
 隼人大反乱
 薩隅の国人
 灰吹法
◎薩摩を南から見る
 種子島
 琉球王国
 ジャンク船
 朝鮮出兵と東シナ貿易
 薩摩藩と密貿易
◎薩隅内乱と島津氏
 高城川合戦
 郷中教育
 御家人の西遷
 島津四兄弟
◎薩摩の対外政策
 関ヶ原合戦と島津氏
 薩摩人の外交能力
 家久の伊勢参り

〇結論 薩摩の日本史上における「意義」

◎ご挨拶
 このたびは麻布学園地歴部の展示「薩摩」にご来場いただきありがとうございました。
 本展示では、戦国時代に活躍した薩摩の戦国大名島津氏の「原動力」について、地理的また歴史的側面から考察し、薩摩の「日本史的“意義”」について考察しようと考えています。
 歴史と言うものは地理や時間、人物、出来事が絡みあったものです。しかし、歴史はその事実、人物のみがクローズアップされ、その背景であり重要な要素である地理などは触れられる事がほぼありません。特に戦国時代に関しては人物の個性から、人物の評価のみが一人歩きしている面が否定できません。
 そこで、私達はあえて、人物ではなく、「地域学」的側面から薩摩を捉え分析する事により一つの歴史の見方を提示しようと考えます。
 それでは、ごゆっくり展示をご鑑賞ください。

                   地歴部員一同

序論
◎薩摩の戦国志
@ 軍事面
 南北朝時代に、国人衆が勢力を伸ばしてきた薩摩では、守護職たる島津氏が国人の統制に懸命になっていた。そんな中で応仁元年(一四六七年)、京都で応仁の乱が勃発。各地に戦乱の種が蒔かれた。
 文明六年(一四七四年)、十一代当主を忠昌が襲いだ。弱年の当主になった島津氏はその権力を低下させていく。文明七年(一四七五年)、有力分家である薩州家国久は同じく有力分家・豊州家季久と共に造反。文明十六年(一四八四年)には有力分家・伊作家久逸の反乱が発生。また明応九年(一五〇〇年)には薩州家にて家督争いが勃発し伊作家久逸が討死する事件が起きた。
 これだけ反乱が多くなれば国人も島津氏に愛想を尽かす。明応・永正年間(一五〇〇年前後)ついに大隅高山城主・肝付兼久が反乱を起こした。忠昌は討伐を行うが永正三年(一五〇六年)、返り討ちに遭ってしまう。国内の紊乱に悲観した忠昌は永正五年(一五〇八年)、鹿児島清水城内で自刃した。この後、忠昌嫡男・忠治、忠昌次男の忠隆が次々と夭折。
 そうして永正十六年(一五一九年)、忠昌三男・勝久がわずか十六歳で十四代家督を継いだ。立て続けに当主を無くした島津宗家は権力を喪失し、代わって薩州家実久と伊作家忠良の二分家が大きな権力を掌握していた。勝久は領国支配のために忠良の協力を欲し、忠良嫡男・貴久を養子にし、大永六年(一五二六年)家督を貴久に譲った。しかし、それが面白くない実久は大永七年(一五二七年)勝久を唆して当主に復帰させると貴久を攻撃。実久・勝久連合と忠良・貴久の内乱が始まった。
 当の勝久は、家老処分を巡って実久と対立。天文四年(一五三五年)にはついに鹿児島から追放されてしまった。これ以後、薩州家実久と伊作家忠良の内乱となる。
 最初、圧倒的な勢力を誇る薩州家が圧倒したが、次第に伊作家が巻き返し、天文八年(一五三九年)に実久は降伏した。
 しかし、国人衆はもはや島津氏に従わない。忠良・貴久父子は国人衆の鎮定に忙殺されることとなる。天文十四年(一五四五年)には貴久は鹿児島に入って再び薩摩守護職を名乗り、正式に家督を継承した。
 ちょうど同時期である天文十二年(一五四三年)には種子島に鉄砲が伝来した。
 天文二十三年(一五五四年)、国人である蒲生氏・祁答院氏・入来院氏・菱刈氏などが連合し反した。島津氏はこれを攻撃。岩剣合戦においてこれを打ち破り蒲生氏は滅んだ。続いて、島津氏は大隅の肝付氏との和議を破棄して攻撃を決定。天正三年(一五七五年)にはこれを降した。同時並行で、永禄十年(一五六七年)に反した菱刈氏を永禄十二年(一五六九年)に薩摩より追放。元亀元年(一五七〇年)には北薩の大族である渋谷一族(東郷・入来院・祁答院の三氏)も下った。
 島津氏は、続いて日向伊東氏と交戦状態に入る。そして元亀三年(一五七二年)木崎原合戦において伊東氏を粉砕するとその勢いで伊東氏を滅ぼした。
 そして、島津拡大を嫌った豊後・大友氏の南下を、天正六年(一五七八年)高城城下で迎え撃ち完膚なきまでに叩きのめした。これが著名な耳川合戦である。このまま豊後へと侵入する事を狙ったものの、海戦において大友水軍に敗れたため、肥後に攻略目標を変更した。
 天正九年(一五八一年)肥後人吉の相良氏を降すと北上。やがて肥前佐賀の龍造寺氏と対立関係になる。
 天正十二年(一五八四年)、島原半島の有馬氏が龍造寺氏の攻撃を受ける。援軍として派遣された島津家久(貴久四男)は龍造寺軍を沖田畷で打ち破り、当主隆信を討ち取った。これで龍造寺氏も島津氏に降った。
 天正十四年(一五八六年)島津氏は大友領への侵攻を開始。大友氏は豊臣秀吉に援を要請した。八月、岩屋城に籠もる高橋紹運を激戦の末討ち、十一月には豊後へ侵攻。戸次川では豊臣軍の先鋒たる四国連合軍を撃破した。
 しかし、秀吉自らが大軍を九州に上陸させると多勢に無勢であった。天正十五年、島津氏は豊臣政権下に膝を屈した。
 これ以後、朝鮮出兵では明軍を大破し、関ヶ原合戦では西軍に属いて家康本陣を脅かすなど数々の軍功をうちたて、島津氏の勇敢さを天下に見せ付けた。

A 文化面
 島津氏は、元が摂関家・近衛氏の官人だったこともあり、中央の文化について興味を示し、造詣も深かった。戦国時代という乱世において、儀礼は忘れ去られ、省略されるものである。しかし島津氏はこれを保持しており、朝廷儀礼から作法まで広く守られていたと言われている。
 中世、特に応仁の乱以降においては文化の中心である京が衰退した。そのため文化人たちは次々と地方に疎開。結果として地方文化が花開いた。
 特に鹿児島では、東シナ海での貿易の影響もあり、明や琉球からの文化流入もあって独特の文化が形成された。
 薩摩の文化的側面で有名なのは薩南学派である。薩南学派とは、土佐の海南学派と並び賞される朱子学の一統である。十一代当主・忠昌は京より学僧・桂庵玄樹を鹿児島に招いた。桂庵は鹿児島に桂樹庵を建て、島津氏の家臣たちに朱子学を講義した。また文明十三年(一四八一年)には島津氏家臣・伊地知重貞と共に日本発の朱子新注を出版した。また儒教の経典である「四書」に訓点を付け、日本人にも読めるようにした「家法和訓」も著した。
 薩南学派はそののち、十六代当主義久の下に仕えた南浦文之に至って天下に広まる。文之は桂庵の著した「家法和訓」の訓点を改良。それは「文之点」と呼ばれ、四書読解の基本となった。他にも、鉄砲伝来時の事を、種子島領主・種子島久時(伝来時の当主・時堯の次男)より話を聞いて編纂。「鉄炮記」を著している。
 このように薩摩では島津氏を中心に軍事的、文化的両面で劇的な発展を遂げているのである。


本論
◎薩摩の地理と特性
@ 火山灰地と薩摩
B やはり、鹿児島と言われれば桜島、それに指宿の温泉とか。
A その例でもわかるとおり、薩摩・大隅は両国とも火山国として知られているね。桜島だけでなく、霧島や開聞岳、宮之浦岳もみな薩摩・大隅の火山だよ。
B そういえば、シラス台地というのもあったね。
A シラスというのは火山灰のこと。シラス台地とは、阿蘇山や桜島・霧島などの火山灰が降り積もって出来た台地だね。薩摩・大隅にはシラス台地が広がっているんだ。
B シラス台地は、水はけがよく養分が少ないから稲が作りにくいんじゃなかったけ。
A そうなんだ。地質学的な話なんだけど、シラス台地は細かい火山灰の堆積でできてるから、当然水はけがよく、また脆かったんだ。稲も作れないから、薩摩・大隅では江戸時代初頭に薩摩芋が入ってくるまでは里芋や雑穀が主食だったんだ。
B それじゃあ、貧しかったんだね。
A 稲が作れないから貧しいというわけにはならないね。ただ、栄養価の点では稲よりも雑穀の方が小さい。後に島津家が日向に進出するのは、稲作が盛んな都城盆地や宮崎平野に進出しようとしていたからかもしれない。
B そうか、でも栄養価の低い雑穀が主食で、よく戦争できたね。薩摩兵は強兵だったんじゃないの?
A 薩摩兵が強兵だった理由こそ、薩摩が火山灰地だったからだよ。例えば、兵が精強だと知られていた甲斐(山梨)や越後(新潟)なども条件の厳しいところなんだ。人間は条件の厳しいところほど生きようと頑張るんだ。
B わかった、厳しいところの人ほど、厳しい生活から抜け出したいから他の豊かな土地への願望が強いんだね。
A きっとそういう理由もあるだろうね。事実、肥沃な土地を抱えてとても豊かな美濃や尾張の兵は天下最弱だとも言われているんだ。

A 地域の独立性
A 薩摩・大隅地方、現在の鹿児島県の地図を広げれば分かるけど、鹿児島というところは山と海に囲まれているところなんだ。
B 確かに、国見山地や霧島が鹿児島の北に聳えているね。他の九州からは隔絶している感じだね。
A そのことは、薩摩の人々に連帯心を生ませたんだ。それは例えば薩摩弁としても現れているよ。
B 薩摩弁は、同じ九州の人でもわからないって言われているね。
A その通り。これも元々は、鹿児島が山と海に囲まれて他の九州各国とは独立しているからなんだ。
B でも、薩摩の歴史を見ていると、日向南部の豪族がよく出てくるよね。そこの関係はあったんじゃないの?
A 日向・大隅国境の山々は北の国境に比べて低い。でも、日向は北と西の国境が高い山なんだよ。だから薩摩・大隅・日向三国を合わせて「三奥」と呼称することもあるんだ。
B なるほど。
A そして、閉鎖的空間に住んでいる人たちというのは、自然と排他的になり、自分達の連帯感が養われるんだ。
B つまり、薩摩の中で養われた連帯性や排他性が薩摩人の大きな特徴なんだね。

B 南国薩摩と薩摩人
A 薩摩人って、どういう印象がある?
B とにかく勇猛な印象だね。考えるよりも行動のほうが先とおいうかんじかな。
A 薩摩では、そのような勇敢さが尊ばれたんだ。薩摩では「泣こかい、跳ぼかい、泣こよっかひっ跳べ」って言う諺がある。
B どういうこと?
A くずくずしているなら、果敢に挑戦してしまえっていう意味だよ。他にも「議を言な」とも言われるんだ。理屈より前に行動することがよいこととされたんだ。
B でも、なぜ?
A 南国という所は、人を楽天的にさせるんだ。
B どうして?
A 北国は、懸命に生活しなければ暮らしていけない。でも、南国は北国ほど懸命でなくても暮らせるんだ。それに、気候自体が陽気だからね。
B それで、楽天的な性格と関係あるの?
A 楽天的だからこそ、考える前に行動するということができるんだよ。悲観的だったら、先に悪い事があるとしか思えないから行動できない。でも楽天的なら、先が良い事だと思い込んでるから行動できるんだ。
B なるほどね。
A そして、その楽観性は辺境の土地に見られる、中央への反抗心と相まって天下を狙う攻撃性ともなるんだ。

C 薩摩隼人
B そういえば、古代には鹿児島って違う民族だったよね。
A 違う「民族」だったかどうかはわからないけど、「日本書紀」や「古事記」には隼人と呼ばれる人々が薩摩に住んでいたことが書かれているよ。
B 隼人とは、どんな人々だったの?
A さっきも言ったけど、民族的には不明なんだ。ただ、東南アジアから来た南方系の人たちではないかと言われているんだ。
B へえ。
A 習俗は畿内とかなり違ったようだ。隼人の中には畿内に移住した者もあったんだけど、彼らは朝廷内で呪術的な役割を果たしていたことからもわかるよ。
B そういえば、隼人が使った盾が平城京から出土しているね。
A 隼人は、戦力としても重要視されていたんだ。天平十二年(七四〇年)の藤原広嗣の乱でも、大宰府の長官であった広嗣の命を受けて、隼人はこぞって広嗣軍に参陣しているんだ。
B でも、広嗣は反乱軍でしょ?
A 当時、大宰府は九州を一手に握っていたから、隼人にとっては大宰府の命が至上だった。でも、官軍と相対した時に、隼人は官軍へと下っているんだ。
B 裏切ったの?戦力になっていないよ。
A どうやら官軍の中に、畿内在住の隼人が参加していたらしい。その畿内隼人たちが反乱軍の隼人に降伏を呼びかけたらしいんだ。
B それだけ?
A 隼人というのは、同族意識がとても強かったようなんだ。反乱軍にいた隼人たちは思いもかけず、官軍から自分たちの言葉を聞いたんだ。そして彼らは畿内隼人を信用したんだろうね。当然、反乱軍にいるというのも状況から把握していただろうけど。
B そうすると、隼人は機を見るに敏で、同族意識に強かったんだ。薩摩人の特性そのままだね。
A その通り。そして、これは南方系アジア人の気質に共通するんだけど、とても勇敢だったんだ。だから戦力として有望視されていたんじゃないかな。
B なるほど。
A そして、彼ら隼人達の気質はさっき言ったような地理的要因で形作られたとも言えるんだ。その血は脈々と中世にも受け継がれ、薩摩の兵は強悍な兵となったんだ。

D 流刑地
A 薩摩は辺境の地だったから、よく流刑地として罪人が流されてきたんだ。
B 源平時代に、平家打倒の謀議がばれて流刑になった俊寛は有名だね。
A そのとおり。他にも、以仁王の乱に敗れた源頼政の孫なども流されてきているんだ。
B でも、罪人が流されてくることって、なにか影響するの?
A 室町時代以降に、薩摩を割拠する豪族の中には、流人の末裔を称する豪族も多かったんだ。例えば菱刈氏や禰寝氏、種子島氏もそうだったんだ。
B 流人って罪人だよね、なぜわざわざ罪人の末裔を名乗るの?
A たとえ罪人だとしても、流される人には高貴な血筋の人が多かったんだ。
B なるほど。
A 薩摩と言うところは中央から極めて遠い。だから都への羨望がとても強かったんだ。
B その都から来た高貴な人というのは、とても珍しかったんだね。薩摩の人にとって罪人ではなく彼らは貴族だった。
A そうだね。そしてその「血筋」を薩摩の人たちはとても敬うんだ。
B それで、人々が集まるんだね。
A そういうこと。その影響もあって薩摩・大隅は武士団の多い土地柄になってしまったんだ。
B たしかに、薩摩・大隅は渋谷に菱刈、蒲生、禰寝、肝付などの諸勢力が入り乱れて戦いを繰り返しているね。
A そして、そのような状況が薩隅統一に島津氏が手間取る要因になるんだ。

E 鉱物資源
A 現在の鹿児島県は、金産出量日本一を誇っている。鹿児島県北部の菱刈金山では、これまでに産出した金鉱の総量が、佐渡金山が産出した金鉱の総量を越えたんだ。
B でも、昔から鹿児島では金が取れたの?
A 江戸時代の薩摩藩は徹底した機密主義を取っていたから、金山に関する文書はほとんど残っていないんだ。だから、中世・近世を通じてどれぐらいの金産出量があったかわかっていない。でも、金山があったこと自体はわかっているんだ。
B つまり、薩摩に金はあったんだね。
A そう。北薩地方に金山は点在していたようだよ。肥後南部の相良氏が北薩に侵入を繰り替えし、島津氏と何度も交戦していたのも金山の権益の奪い合いだった可能性が高いんだ。
B そういえば、島津氏が北薩を制圧したのは大隅経略の後だったね。
A 島津氏はたびたび北薩を狙っているけど、そのたび菱刈氏や相良氏に撃退されているね。もしかしたら、島津氏を追い返すだけの力を菱刈氏が持っていたのも金山を持っていたからかもしれない。
B なるほど、それではやっぱり金山は薩摩に欠かせないものだったんだね。
A 薩摩にある鉱物資源は、金山だけではないんだ。砂鉄も取れたんだ。
B 砂鉄?砂場に磁石を持っていくと、砂がくっつくよね。あれでしょ。それすごいの?
A 鉄を作るのに砂鉄を使ったんだ。どの戦国大名でも武具甲冑を作るのに鉄を使う。だから鉄の流通や生産を押さえるのが戦国大名にとってとても大切だったんだよ。
B なるほど、でも、鉄は鉄鉱石から作るんじゃないの?薩摩には鉄鉱山はないよね。
A たしかに鉄鉱山はない。でも、戦国大名が鉄鉱石を持っていても鉄にはできなかったんだ。
B え?
A 鉄鉱石は鉄の酸化物なんだけど、それを還元して鉄単体にするには高温と大量の還元剤が必要なんだよ。
B つまり、それらが戦国時代には得られなかったんだね。
A そのとおり。還元剤は木炭でどうにかなったんだけど、高温が得られなかった。だから、幕末に反射炉が輸入されるまで鉄は砂鉄で作っていたんだ。
B でも、砂鉄ってどこでもあるよ?砂場でもいいんじゃない?
A 砂鉄って言っても、質がよくなければ鉄は作れない。そして質のいい砂鉄が薩摩では手に入ったんだ。
B ようするに、鉄の原料を持っていた薩摩は、鉄生産が可能で、武具の入手が容易だったんだね。
A そのとおり。薩摩では南部で砂鉄が取れた。そのもっともたるが種子島なんだ。
B 種子島と言えば鉄砲、それから特産の種子鋏。みんな鉄製品だね。
A 種子島には刀鍛冶が多かったんだ。彼らがその技術で作ったのが鉄砲であり、鋏だったんだ。そしてまた、薩摩には薩摩刀という刀鍛冶一派もあった。薩摩らしく豪壮な作風で知られていたんだ。
B なるほど、他に取れるものはあるの?
A まだあるね。薩摩は硫黄が取れたんだ。
B 硫黄といえば、火山のあるところでよく見る黄色い物質だね。薩摩は火山が多いからいくらでも取れそう。硫黄島という島もあるし。でも、何に使うの?
A 硫黄は火薬の主要な原料だったんだ。火薬はそして、鉄砲には必需品なんだ。
B 鉄砲も火薬がなければただの筒だからね。硫黄が取れたってことは、火薬の原料を自前でまかなえたんだね。
A 火薬の残りの原料である硝石が日本では取れないから火薬自前というわけには行かなかったんだけど、硫黄はたくさん取れたんだ。日明貿易の主要輸出品だったんだ。火薬は消耗品だったからね。
B 自分で消費する分だけでなく、輸出することで利益も得ていたんだね。
A そのとおりなんだ。そして、これまでを見て判るとおり、薩摩という土地は必ずしも農業的には裕福ではないけど、その分資源にめぐまれていたんだ。

鹿児島の地理
鹿児島は、九州の南端に位置し、小さな山脈と河川が多いために平地が比較的少ない土地だ。火山灰によって出来たシラス台地のため、やせた土地となっており、またシラス台地は水を含むと崩れやすく、豪雨になれば崖崩れも多い。さらに開聞岳や霧島山や現在活動している桜島など、多くの火山がある。また、屋久島には県最高峰の宮之浦岳と永田岳があり、「洋上アルプス」と呼ばれている。屋久島は現在世界遺産に登録されており、また種子島は、戦国時代に鉄砲が伝わった最初の場所、ということで有名である。

隼人大反乱
 古代、薩摩には隼人と呼ばれる人々が暮らしていた。隼人は朝廷から異端視され、厳しい支配下に置かれていた。
 養老四年(七二〇年)二月、隼人は大隅国府を襲撃。国司を殺害した。これが隼人の反乱の始まりである。
 朝廷は大伴旅人を将軍として、軍勢を派遣した。
 同年六月、九州より朝廷に報告があった。その内容は、「朝廷軍は有利に戦いを進めているものの、隼人の抵抗は激しい。」と、長期戦の様相を呈してきたことを伝えている。八月には、将軍・大伴旅人は都へと帰還し、代わって副将軍が戦闘を行うようになっていた。
 そして翌年七月、ついに朝廷軍は鎮圧に成功し、都に凱旋した。
 しかし、これを「反乱」と呼ぶのは一方的な見方である。元々支配の手を伸ばしたのは朝廷である。すなわち、隼人は侵略者である朝廷に対して抗戦したに過ぎないのである。

薩隅の国人
 薩隅には様々な国人がいる。
 北薩地方に勢力を張るのが渋谷一族である。渋谷一族は祁答院氏・入来院氏・東郷氏らのことであり、三氏それぞれ大きな勢力を誇っていた。また、大口には菱刈氏が勢力圏を保持していた。
 南薩地方において、戦国時代には島津領が増えており、島津氏の基盤となっていた。
 西大隅には蒲生氏が勢力を持ち、また加治木氏や伊地知氏なども勢力を持っていた。
 大隅中部には、大勢力である肝付氏がいた。肝付氏は国司出身であるために島津氏よりも前に大隅に土着しており、対立は根深かった。
 大隅南部は禰寝氏の所領である。禰寝氏は水軍も保持し、屋久島・種子島にも勢力圏を伸ばそうと画策し、種子島氏と交戦を繰り返している。
 薩摩・大隅はこのように、国人の群雄割拠下に置かれていたのである。

灰吹法
 灰吹法とは、いろいろなものが混じっている鉱石から金銀を精錬する方法のひとつである。
 まず金鉱石や銀鉱石を砕き、比重の違いなどから金銀の含まれていない石を除いた後、炉で鉱石を溶かして、吹子を使って息を強く吹くことで鉱石の中に含まれている不純物を表面に浮かせてかき出すと、ついには鉛と金や銀の合金である貴鉛という物が残る。そしてそれを灰吹炉という、鉄の鍋のようなものに灰を入れたものの上に貴鉛をのせ、炭の粉を振りかけて火をつけ、生木を乗せて隙間をぬれた筵でふさぐ。すると温度が上がって貴鉛が融け、吹子で吹き込んできた空気中の酸素と鉛が結合し酸化鉛となって、後には金銀が残る。
 この方法は朝鮮から伝来し、日本の金銀の生産量を上げ、特に石見銀山はこの方法が伝わってからは、当時の世界銀生産量の十五分の一という莫大な生産量を誇った。


◎薩摩を南から見る
@ アジア東岸貿易圏成立
B 戦国大名は、しかし国内の要因だけでは躍進できないね。当時の世界情勢も鑑みる必要があるよ。
A 当時、東南アジアや明、李氏朝鮮との交易がさかんだったんだよね?
B その通り。元々東シナ海は、遣唐使の例を見ればわかるとおり、古代から物のやり取りがなされてきたんだ。
A 遣唐使の出港地は薩摩半島の先端である坊津だったんだよね。
B そうなんだ。それを見て分かるとおり、薩摩は南に開く玄関だったんだ。
A でも、本格的に交易を始めたのはいつになるの?
B 世界史になるんだけど、11世紀になってイスラム商人がインド洋で交易を始める。そして、それに目をつけた中国人商人たちがアジア東岸で貿易を始めるんだ。
A なるほど。
B 十二世紀になると、ユーラシア大陸の混乱で陸路が使えなくなり、海の交易が盛んになるんだ。それはモンゴル帝国の出現で飛躍的に成長するんだ。
A モンゴル帝国は陸じゃないの?騎馬民族でしょ。
B 陸をほとんど握ると同時に、海も握ろうとしていたんだ。モンゴル帝国は交易の利益を知っていたから、だけでなく海の交易ルートも握って莫大な利益を得ようとしていたんだ。
A なるほど。
B そして、中国で元が崩壊し、朝鮮で高麗が崩壊し、日本で鎌倉幕府が崩壊した十四世紀になると、倭寇が出現するようになったんだ。
A 中央政権の取締りが行き届かなくなるから、一部の商人が武装化するんだね。
B それに、日本沿岸の小豪族が中国や朝鮮で一儲けしようとしたんだ。でも、明や李氏朝鮮、室町幕府の成立で倭寇は取り締まられ、鳴りを顰めるんだ。
A それに代わって朝貢貿易が盛んになるんだね。でも、再び政情は不安定になるよ。
B そうするとまた倭寇が出てくるんだ。でも彼らは中国の武装商人だから前の倭寇とは全然違う。彼らはマラッカ以東の貿易を一手に握るんだ。そしてそこに目をつけたのがスペイン・ポルトガルなんだ。
A 当時ヨーロッパは大航海時代で、香辛料を求めてアジアに出現していたんだね。
B 他にもカトリックの布教や植民地獲得を狙っていたスペイン・ポルトガルは倭寇のネットワークを利用し、貿易を始めたんだ。
A そしてそのネットワークには当然、日本も入っていたんだね。
B この時代は、日本と西欧の接触というだけでなく、アジア文化がヨーロッパ文化と接触するようになったという世界史的に大きな事件だった事がわかるんだ。
A これで役者が揃ったね。
B 彼らはそして、アジア東岸を股に掛けて貿易をしていたんだ。

A 倭寇
B そして、このアジア東岸貿易において、重要な役割を担ったのが倭寇だったんだ。
A 倭寇と言っても、中国の武装商人が中心だね。
B そうだよ。
A でも、なぜ中国人商人が海賊になったの?
B 当時、中国の王朝であった明が海禁政策と呼ばれる鎖国政策を採ったんだよ。だから商人たちは貿易できなくなってしまったんだ。
A 海賊になることはなかったんじゃない?中国は広いから農耕できそうだし。
B 倭寇の多くは中国南部、華南の福建・広東出身の人々だったんだ。
A 今香港やマカオがあるところだね。
B 福建・広東は海に面しているものの、山がちなところで農耕できる平野が少ないんだ。だから、海に出て通商で稼ぐ人が多かったんだ。
A なるほど。生活の糧である商業をとられて暮らせなくなった人たちが海賊になったんだね。
B だから、倭寇と言っても略奪目的じゃなかったんだ。
A いわゆる西洋の「海賊」ではなかったんだ。
B そう。むしろ、彼らはアジア東岸貿易において大きな通商ネットワークを持っていて、それがアジアで重要だったんだ。
A その一帯の貿易を握っていたんだね。
B 彼らは通商だけでなく、軍事力も持っていたから、アジア東岸貿易は独り占めだった。
A それに目をつけたんだね。西欧諸国は。
B そう。事実、鉄砲伝来時に来たポルトガル船の水先案内人は倭寇だったんだ。
A 西欧諸国が利用するほど、倭寇はアジア東岸貿易での権益を握っていたんだね。

B 鉄砲伝来
A 鉄砲伝来といえば、小学校の教科書にも載っているよね。「一五四三年、種子島に鉄砲は伝来しました。一五七二年には長篠合戦において、織田信長が大量使用で当時最強と言われていた武田氏の騎馬隊を打ち破りました。」って。
B 長篠合戦については、一昨年に研究したからここでは触れないよ。でも鉄砲が伝来したのは大隅・種子島だから、こちらをもっと深く眺めよう。
A 伝来からわずか六年後の天文十八年(一五四九年)には、薩摩加治木城攻めで鉄砲は実戦に使用されているね。
B 鉄砲が伝来した種子島の領主・種子島時堯と島津氏は姻戚関係にあったから、鉄砲はすぐ島津氏に伝わったんだ。
A なるほど。たしか鉄砲を伝来したポルトガル船は漂流してきたんだよね。
B 最近、「難破説」は否定されてきたんだよ。その根拠に挙げられるのが、日本側の記録である「鉄炮記」なんだ。それには、ポルトガル船が漂流してきたなどと一言も書いていないんだ。
A つまり、ポルトガル船が意図して種子島にきたって事?
B ポルトガル人が乗っていたのも、ポルトガル船ではなく倭寇のジャンク船だったんだ。当然、水先案内人も倭寇だよ。
A ようするに、ポルトガル人はアジア東岸貿易の倭寇ネットワークを伝って、新しい交易先たる種子島に来たんだね。でも、そしたらなぜ博多や堺に行かなかったの?
B まず、種子島の位置が挙げられるね種子島は東シナ海に面していて、アジア東岸貿易の一翼を担っていたんだ。
A それなら、博多も堺も変わらないよ。
B 種子島は東シナ海に近いんだの点博多や堺は内陸だという単純な地理条件もあるだろうね
A でも、種子島はそんなに貿易拠点として発達していたの?
B 当時種子島には根来寺の支局のようなものがあったんだ。これが鉄砲を広めさせる一つの一因になるんだけど、支局があった理由が、貿易を行うためだったんだ。
A 支局を置かれるだけの拠点となっていたあかしだね。
B ようするに、鉄砲もアジア東岸貿易の物流に乗って流れ込んできたに過ぎないんだ。鉄砲伝来は”偶然”でなく”必然”だったんだよ

C 島津氏とアジア東岸貿易
B ここまでアジア東岸貿易について色々述べてきたけど、具体的に薩摩とどういう関係があったのかについても考えないとね。
A 島津氏は一大名だったからね、特に相手国には相手にされなかったんじゃないの?
B そんなことは決してない。事実、琉球王国は島津氏の勘合(貿易許可証)がなければ貿易を許さなかったんだ。
A そうか、元々薩摩は良港も多いから、寄港地になったんだ。
B そういうこと。交易するものが薩摩にはあったらしいし。
A 硫黄が主要輸出品だったんだ。だから薩摩は輸出するものもあったんだね。
B それだけじゃないんだ。薩摩・大隅沖には黒潮が流れている。そしてその、トカラ列島から甑島列島へと北流する支流(対馬海流)に乗ればその先は朝鮮にたどり着くんだ。また、東シナ海に吹く季節風に乗れば夏に中国へ行き、冬に帰ってくるという貿易形態も可能だよ。
A 薩摩も、アジア東岸貿易の玄関になっていたんだね。
B そう。そして島津氏は一番琉球貿易を重視したんだ。
A どうして?
B 明は朝貢貿易と呼ばれる貿易をしていたんだ。日本が明に臣従し、貢物を送る代わりに明が日本にそのお返しをする。そうやって貿易を行っていたんだ。でも、日本貢物を送る回数は十年に一回に制限されていたんだよ。
A それじゃあ、明からのお返しである中国製品は手に入る量がとても少ないって事だね。
B その点、琉球王国は二年に一回の割合で交渉を持っていたんだ。また、地理的な面もあって他の国々からも物資が集積するんだ。
A 中継貿易地だね。
B そして、島津
氏も琉球と貿易し、中国製品を中心に様々なものを手に入れたんだ。
A それで手に入れた物資を日本各地で売って、利益をあげていたんだね。農業収入の代わりに。
B だから、島津氏にとって貿易は欠かせなかったんだ。

D 環東シナ文化圏
A そういえば、言語が違うよね。薩摩と琉球と明じゃ。そういうところはどうしていたの?通訳がいたの?
B あくまで一説に過ぎないけど、この時代には「東シナ語」のようなものがあったとも言われているんだ。
A 東シナ語?
B 現在、薩摩弁・琉球弁とも特殊な方言として知られているけど、それらには中国語福建方言や朝鮮語に似た単語があるんだ。
A つまり、福建や朝鮮から言語が流入していたってこと?
B そういう風に解釈することもできるけど、環東シナ海では薩摩や琉球、福建、朝鮮からの言語が混じった「東シナ語」が話されていたんではないかと解釈する事も出来るんだ。薩摩弁や琉球弁はその名残だよ。
A でも、貿易圏で言語が作られることはあるの?
B ある。実際環インド洋貿易圏ではアラビア語やバントゥー語、ヒンドゥー語など混じり、スワヒリ語と呼ばれる言語が形成されたんだ。
A やはり、人の行き来が多いと、混ざりやすいのかな。
B たぶんそうだろう。やはり貿易するにも言葉が通じなきゃいけないから、複数カ国語しゃべれる商人たちがたくさんいただろうね。
A あ、そうすると言葉が混じるんだ。
B 言葉だけじゃない。習俗などもいろいろなところのものを取り入れたりするから混ざるんだ。
A 結果として、一つの文化とも言える混合文化ができるんだね。
B その通り。そしてまた、この事実から貿易圏と言うものが重要な役割を果たし、また盛況だった事が伺えるんだ。

種子島
 種子島は、大隅半島の沖に浮かぶ島である。高低差が小さく、平坦な地形であるが、海が近いため塩分を含んだ水しか出ず、結果として稲作に不向きの島である。
 しかし、種子島には豊富な砂鉄がある。種子島の海岸は砂鉄のため黒くなっているほどである。この砂鉄を利用して、かつては刀鍛冶が栄えた。その鍛冶たちは現在、鉄砲と共に伝わったとされる西洋鋏を改良した「種子鋏」を製作している。
 種子島は、東シナ海に面している。そのため、時代を通じて東シナ交通の要所とされ、貿易によって栄えてきた。
 種子島の領主は鎌倉時代以来、ほぼ代わらず種子島氏である。その種子島氏の中の一少年が、日本の歴史を大きく変えた。
 その少年とは種子島時堯である。時堯は、来島したポルトガル人より火縄銃を購入。そのうち一丁を分解し複製することを命じたのである。
 その後鉄砲は「種子島」として、種子島を中継する物流に乗り全国に広まっていく。

琉球王国
 琉球において最初に出現する領主とは按司である。これが発生したのは日本でもちょうど武士の勃興する時期である。部落ごとの按司が沖縄統一を目指し周りの部落を攻め始めるようになった。
 按司から派生した王統としては舜天、英祖、察度王統などがあり、どの王統も浦添(今の那覇郊外にある土地)の地から現れている。浦添は政治的にも有利な土地だった。
 英祖王統後半から察度王統にかけて琉球は中山、北山、南山の三山に分かれて勢力争いを行なうようになる。この三山時代から明との朝貢貿易が始まる。明は朝貢の礼に国王であることを証明する勅書を与えた。そのことを冊封という。三山は各々明の後ろ盾を手に入れることで他の二山に対し勢力を張ろうとするが、結局中山の王となった尚円志が琉球を統一し、第一尚氏王統が築かれる。
 この王統は室町幕府とも文書の交換があり、幕府も琉球奉行を置き、琉球の統制を図った。琉球も日本を明や朝鮮、南方からの輸入品の転売地としていた。この頃第一尚氏に代わって農民出身である尚円を王とする第二尚氏王統が誕生する。だが応仁の乱が始まると日本との貿易も寂れてしまう。そこで幕府は島津氏に琉球へ向かう船を管理するよう通達する。その結果島津氏は琉球との貿易による利益を独占し始める。
 その後、琉球は戦国時代を本土から余り関与されないまま過ごしたため武器が殆ど存在しなくなり、平和な治世となった。だが琉球を日明貿易の仲介者にしようとする幕府と、琉球と明の朝貢貿易の利益も独占しようと画策する島津氏の企みに巻き込まれた結果、琉球出兵が起こるのである。

ジャンク船
 中国がアジアとの貿易で使用した木造の帆船の一種。この船の一番の特徴は船底を支える竜骨(キールとも言う)や平らな板が無く、船内が幾つかの壁で隔てられていることである。また帆を支える竹を海水面に対して水平に付ける事で、風が弱い時には帆の撓みを押さえ、また風が強い時には畳み易くしている。
 物資運搬が主な任務だが、河川を移動する比較的小型の物から日本や琉球などを移動するための大型の物まで、用途によって大きさが異なり様々である。宋の時代から始まり明・清の時代には盛んに交易船として使われ経済発展に大きく貢献した。しかしながら、蒸気船が台頭すると衰退し、今ではその独特の形は一部の人々に好まれ、観光用として絵画や写真の材料としてのみその姿を残している。

朝鮮出兵と東シナ貿易圏
 島津氏が豊臣政権下となっていた天正十九年(一五九一年)、豊臣秀吉は朝鮮に侵攻することを決定した。
 翌文禄元年(一五九二年)島津氏は十六代当主義久の弟である義弘を総大将に、朝鮮へと押し渡った。これを文禄の役という。
 文禄四年(一五九五年)、朝鮮と和議が結ばれるが後決裂。慶長二年(一五九七年)に再び朝鮮に侵攻した。こちらを慶長の役という。この時も島津軍八千は義弘を総大将に奮戦し、特に泗川では明軍二十万人を撃破するなど大功を挙げた。
 また、南原では沈寿官以下陶工七十人を捕獲。彼らを連れて帰って苗代川に定住させ、薩摩焼を創始させた。これは、司馬遼太郎の「故郷忘じがたく候」という作品の題材ともなっている。
 ところで、薩摩は明とも関係が深かった。義久の家臣に明国人の許三官という者がいる。彼は朝鮮出兵の話を聞きつけると、いち早く明の福建軍に伝えている。
 南を海に抱かれ、貿易で明と関係の深かった薩摩には当時、明のスパイが多数潜入していた。ここから朝鮮出兵の計画が漏れていた。
 また、スパイたちは義久が秀吉を恨んでいる事も知っていた。義久は、朝鮮出兵に抵抗した弟・歳久を切腹させられており秀吉を恨んでいたのは事実である。
 そんなことで、明の福建軍は島津氏に同盟を持ちかけたという逸話もある。ようするに、福建から送る明軍と島津軍が手を取り合い、秀吉を滅ぼそうと言う計画を建てたのだ。仲介者は許三官であったと伝えられている。周知の通りこの計画は実行されなかった。しかし、明と薩摩がいかに深い関係を持っていたのかということをうかがわせる逸話である。

薩摩と密貿易
 薩摩の坊津は江戸時代以前、日本の大陸への玄関口として中国や琉球、南方との貿易の拠点となり栄えた港町である。江戸時代になり幕府が鎖国体制を敷くようになると、海外との貿易拠点は長崎の出島に移り坊津は港町最悪の危機を迎える。だが坊津は鎖国体制が敷かれた後も港町として栄えるために、通称「抜け荷」と呼ばれる密貿易を行い、海外との取引を持続することで商人たちは強大な富を蓄えるようになる。
 元々密貿易が行っていた薩摩藩は幕府に最初から目をつけられていた。そのため享保年間に密貿易一斉摘発、俗にいう「享保の唐物崩れ」が行なわれ、坊津の密貿易で栄えていた商人たちは一気に没落してしまった。薩摩の承認達は厳しい制限が設けられている琉球を介した幕府公認の貿易だけでは昔の中国との収益を手に入れることは出来ず密貿易に頼らざるを得なくなっていたのである。


◎薩隅内乱と島津氏
@ 豪族割拠と戦国大名化
A 薩隅は、天正三年(一五七五年)まで争乱の中にあった。だから島津氏はそれまで統一に忙殺されていたんだ。
B どうして争乱になってしまったの?
A 遠因としては、南北朝時代まで遡れるんだけど、一番大きな原因は大永〜天文年間(一五二〇〜三〇年代)の島津氏の内訌だね。
B どういう内訌だったの?
A 島津氏には、守護職を継承する宗家のほかに分家が二つあった。薩州家と伊作家って言うんだけど、戦国時代初頭には弱体化した宗家よりも大きな権力を握っていたんだ。
B わかった。分家が宗家乗っ取りを画策したんだ。
A 詳しくは序章に説明されているけど、ようするに弱体化した宗家が崩壊して、その後に分家の権力争いになったんだ。
B で、どうなったの?
A 伊作家の島津忠良が薩州家を降し、忠良の子・貴久が十五代当主勝久の養子になって島津氏の家督を継いだんだ。でも、薩摩・大隅守護職たる島津氏の統制力は激減したんだ。そしてその間に豪族達の独立を許してしまったんだよ。
B そうやって戦乱になってしまったんだね。でも、最後は伊作家が継いだ島津氏が勝つんでしょ。
A そうなんだけど、伊作家が勝った頃にはすでに豪族達が同じぐらいの勢力に成長していたんだ。
B それじゃあ、島津氏が勝った決定的理由があったはずだね。そうでなければ、島津氏は薩隅を統一できないから。
A そうなんだ。争乱の中で勝つには、周りの勢力と同じことをしていたのでは駄目なんだ。
B でも、何をしたの?
A 島津氏の内訌で戦っていた伊作家は、敵に勝つたび、その敵を家臣として組み込んでいったんだ。そうすることで伊作家は肥大する事が出来た。
B でも、敵だった者を家臣に組み込むにはしっかりした統制策が必要だね。
A だから、伊作家では改革を行ったんだ。家臣統制の強化というのは、島津家が守護大名から戦国大名へ脱皮したという事をあらわしているんだ。

A 外城制と兵力不足
A そして、家臣統制策は領国統治制度とともに改革されたんだ。
B 領国の統治と家臣の統制って何の関係があるの?
A 家臣たちはそれぞれ所領を持っているけど、その結びつきが強いから領国を統治するには家臣団の統制が、また家臣団の統制をするには領国統治策の強化が必要だったんだ。
B 互いに、密接に関わっているんだね。それで、家臣統制はもともとどうなされていたの?
A 従来は、自分達の家臣となってもらう代わりに所領の安堵を保証するという、ご恩と奉公の関係だったんだ。当然、家臣たちは自分の居城と所領を持ち、そこは家臣たちの独立した統治下に置かれていたんだ。
B つまり、逆にいえば家臣たちが島津氏に属するメリットがなくなったら直ぐに裏切ってしまう事もあったんだね。
A そうだよ。実際、戦闘中に家臣が自分の兵を引き連れて帰ってしまうこともよくあったんだ。
B それじゃあ、勝てる戦も勝てないよ。
A だから、領土を家臣でなく島津氏のものとすると同時に、家臣たちを統率するため外城制という制度を島津氏(正確に言えば伊作家)は導入したんだ。
B 外城?
A 外城とは、島津氏の領国をいくつかに分けた区画のこと。その中心には城があり、区画内に住む武士たちを城下に集住させたんだ。この区画ごとに島津氏は統治したんだよ。
B 領地を区画分割して統治?江戸時代の藩みたいなもの?
A 少し違う。外城というのはあくまで島津氏直轄領であり、収入は島津氏のものだったんだ。また外城の長である地頭は世襲制ではない。島津氏が任命していたんだ。そして地頭には、その外城出身者以外の家臣が選ばれた。
B 余所者が地頭に選ばれたの?どうして?
A 地元の人が外城の地頭になってしまうと、地頭と土地の結びつきがどうしても強くなってしまう。それでは家臣と土地を切り離し、土地を島津氏直轄にした意味が薄れてしまうんだ。
B つまり、土地から離れた家臣たちは島津氏に従わなくてはならなくなったんだね。
A そうやって島津氏は家臣団を統制し、島津氏の下に集めていったんだ。でも、外城のメリットはそれだけじゃない。
B どういうこと?
A 薩隅両国は農業の取れ高が少ないから人口も少ない。だから兵力を高めるには人口に対する動員率を上げるしかなかったんだ。
B でも、たくさん徴兵したら農業収穫が下がるよ。
A だから、外城に居る武士たちに農業をさせた。半農半武の兵たちだよ。
B これのおかげで、薩隅は動員兵力を拡大できたんだね。

B 宗教政策と耳川合戦
A 島津氏の統治下では、キリスト教と浄土真宗は禁教だったんだ。
B 最初にキリスト教が伝わったのは薩摩だよね。どうして禁教に?
A その二つの教えに共通する、平等思想が島津氏の統治政策に合わなかったからだよ。また、両宗教ともかなり力を持っていたから、それを警戒したのかもしれないね。
B なるほど。でも、せっかくキリスト教を布教に来たイエズス会は困惑したんじゃない?
A だから、イエズス会は豊後(大分県)の大友氏の下で活動してたよ。元々、イエズス会の目的は中国に布教することだったんだ。日本に布教していたのはその布石に過ぎなかったんだ。
B じゃあ、日本での布教は地ならしにすぎなかったんだね。
A 中国を染めれば自ずと他の国も染まると考えていたんだ。そして中国布教への拠点にイエズス会は九州を選んだ。でも、それにはキリスト教禁教を掲げる島津氏が邪魔だったんだ。
B つまり、自らの庇護者たる大友氏に島津氏を攻撃させ、滅ぼしてしまおうと思ったんだね。
A そうやって起きたのが高城川合戦(耳川合戦)だったんだよ。
B 大友軍は十字架を押したて、神社仏閣を悉く破壊しながら進んだらしいね。
A 島津軍はこの戦いで大勝利をあげるんだ。大友氏の家老六人のうち三人を含む重臣多数を討ち取る大勝利だったよ。
B これ以降、大友氏は衰退の一途をたどるね。
A それだけじゃないんだ。イエズス会も大友氏に愛想を尽かし、九州布教から日本全土布教に方向転換して、信長に擦り寄っていくことになるんだ。

C 戦乱と強兵
A 薩摩武士は、日本一勇敢な兵として賞賛されていたんだ。
B どうして?
A 一つの理由として、兵士たちの戦争経験数があげられるんじゃないかな。
B そうか、薩摩は南北朝時代以降、平和な時代はなかったからね。
A それだけ戦争をしていると、弱い者はどんどん死んでいき、強い者しか残らなくなるんだ。
B なるほど。戦国時代には、もはやほとんど弱者は死に絶えていたんだね。
A そして、戦乱の渦で弱者の死に絶えた薩摩では、戦乱の終結したときには強者しか残っていなかったんだ。
B そうか!だから薩隅を統一した島津は、この強者たちで精強な軍団を編成できたんだね。
A そういうことだね。現に、戦国時代に入るまで平和だった尾張・美濃の兵は最弱とされているよ。
B 薩摩人の気質もあるんだろうけれど、やはり戦は経験だからね。
A 島津氏は、この戦馴れした精兵を率いて、九州を邁進していったんだ。

高城川合戦
 天正六年(一五七八年)、豊後の大友氏は日向遠征を決定した。
 大義は、島津氏に滅ぼされた日向伊東氏の再興である。しかし、大友の隠居である大友宗麟の意向は別であった。宗麟は敬虔なキリシタンであり、日向にキリシタン王国を建設しようと目論んだのである。
 大友宗麟は総大将に寵臣の田原紹忍を任命。日向を南下させた。同時に、肥後口から日向に侵入する別働隊を結成し、また海上からも攻撃を計画した。
 しかし宗麟自身は無鹿(延岡)にて留まったままであった。
 大友軍六万は、北日向の名族・土持氏を一蹴すると十月、島津氏の家臣・山田有信籠もる高城を包囲した。高城には佐土原城主で当主義久の弟・家久も駆けつけた。
 それに対して島津義久は援軍派遣を決定。「今が島津氏危急存亡の危機である。老いも若きもみな武器をとって参陣せよ!」との命が国中に駆け巡り、義久の下に四万の兵が集結した。
 義久は高城の南・根白坂に本陣を置いた。対する大友軍は小丸川の向かい、高城付近の台地に陣を布いた。
 十一月十一日。島津軍は最も東にある大友軍の陣を奇襲攻撃し、これを打ち破った。前哨戦に大敗北をしてしまった大友軍は軍議を開いた。
 この中で加判衆(家老)である佐伯惟教は和議を提案。しかし、加判衆である田北鎮周がこれに反発。大友諸将が二派に割れ、激論が戦わされた。しかし田原紹忍では収拾がつかなかった。
 十一月二十三日、田北鎮周は独断で小丸川を渡河。続いて佐伯惟教以下諸将が列した。大友軍は果敢な突撃で島津前衛部隊を粉砕し、島津本陣を突いた。
 しかし、ここで歳久・以久以下の伏兵部隊が大友軍の側面を攻撃。続いて城将・島津家久の部隊も大友軍後背を攻撃した。
 これには大友軍はひとたまりもなく崩壊。豊後に向けて敗走をはじめた。島津軍は続いて追撃戦に入り、耳川まで追った。大友兵の屍で耳川までの七里は埋まったと伝えられている。
 大友軍の犠牲者は最終的に四千を数えた。そして加判衆である佐伯惟教・田北鎮周・吉岡鑑興他、吉弘鎮信・臼杵統景・蒲池鑑盛以下多数の将を失ったのである。
 この合戦以後、大友家は衰退の一途をたどる。
 ところで、普通この合戦は「耳川合戦」と呼ばれていが主戦場は耳川ではなく高城川(小丸川)であるため、最近では「高城川合戦」と呼称することが多くなっている。

郷中教育
 外城内では特殊な教育法が取られていた。それを郷中教育という。
 まず、武士の子を年齢順に「稚児」「二才」に分けた。そしてそれぞれに「稚児頭」「二才頭」を任命して統制を行わせた。
 稚児は、毎日朝起きると二才の家へ行き、学問や武芸などを教わった。また、揉め事が起きると二才が集まって話し合ってすべてを裁断した。
 このような教育制は、薩摩武士の思想を形成するのに重要な役割を示している。
 この郷中教育について、出水外城での掟書である「出水兵児修養掟」というものがある。その掟は、薩摩武士たるものの基本が規定されており、中には「死すべき場を一足も引かず」といった壮烈な文言も含まれている。
 郷中教育が本格的に導入されたのは江戸時代のことであったが、江戸時代、武士が泰平に慣れて堕落していく中で薩摩藩士が「武士」であり続けられたのもこの郷中教育のおかげであった。

御家人の西遷
 御家人の西遷とは、聞きなれない言葉かもしれない。これは「西に遷る」の文字通り、鎌倉時代に、関東より九州へ大量の御家人が下向した現象を指す。
 関東から下向した西遷御家人は島津・少弐・大友の三守護を始め、伊東・相良・宇都宮・龍造寺など多岐にわたる。
 それでは、なぜ下向したのであろうか。原因はいくつかある。まず、九州に平氏方の所領が多かったことが挙げられる。平氏を叩いた源氏は平氏方の所領を奪い、源氏方に与えた。結果として関東を本拠とする源氏方武将の中に、九州に所領を持つものが増えたのである。
二つ目は元寇である。元寇の際、九州に所領を持つ御家人達に鎌倉幕府は下向を促したのである。万が一、元が攻めてきた場合、すぐ応戦できるように、現地待機してもらうことにしたのである。
 そのようにして、下向した御家人達は様々な形で土着し、地元の国人となっていくのである。

島津四兄弟
 戦国島津氏の躍進には、やはり人材も欠かせなかった。その点、島津氏にとって戦国期は他に類を見ないほど人材の揃った時期であった。
 特に、十六代当主義久とその兄弟である義弘・歳久・家久はいずれも有能な人材として賞賛される。彼らの祖父・忠良はその兄弟を「総領の義久、武勇の義弘、知略の歳久、兵法の家久」と評している。
 その評の通り、長男義久は総領として外交面や内政面で抜群の才能を示している。また、次男義弘は木崎原や関ヶ原などで挙げられるように猛将として名高い。三男歳久は、伝えられる業績こそ少ないものの「始終の利害を察する計が並びなし」と言われ、島津氏を全体から統括していた。末っ子家久は沖田畷で龍造寺隆信を、戸次川で長宗我部信親を討ち取るという大功を挙げており、まさしく兵法の天才であった。
 このように、島津氏は、地域的な力と人材的な力が合わさり、九州を北上していったのである。


◎薩摩の対外政策
@ 群雄割拠と外交
B さっきから何度も述べている通り、薩摩は長い間動乱に巻き込まれていたんだよ。
A 守護職ではあったけど、国人との争いが激しかったね。
B そんな中、島津氏は卓越した外交術を身に付けるんだ。
A 勢力が多い中では、戦う者と結ぶ者をきっちり決めないといけないからね。でも、島津氏は本当に上手かったの?
B 例えば、薩隅統一まで国人衆による包囲網構築や隣国からの大挙侵入がなかったのは外交術の上手かった証拠だね。
A 確かにそうかな。
B 島津氏のすごい所は、徹底的に遠交近攻策をとったことなんだ。
A 遠交近攻?
B 遠くと交わり、近くを攻めるということ。戦乱の世では外交の基本だったんだ。
A たしかに、薩摩統一の時は大隅肝付氏、大隅・日向攻めでは豊後大友氏と同盟を結んでいたね。
B 遠交近攻策では、自分を攻める近い敵の背後を遠くの味方が攻撃してくれるから包囲されにくいんだ。
A だから包囲網に遭わなかったんだね。
B そのおかげで島津氏は兵の損耗を最小限に抑えて薩隅統一を行う事に成功したんだ。

A アジア東岸貿易と外交
A でも、薩摩と言う閉鎖的空間だけで外交と言っていても、それは所詮スケールの小さいものだね。
B 外交術の成長には、アジア東岸の貿易も関係していたんじゃないかな。
A そうかもしれない。でも、外交交渉なんてしていたの?
B 島津氏の外交術に関して一つ、面白い逸話があるんだ。
A どういう話?
B 永正十三年(一五一六年)、三宅国秀という備中の豪族が琉球攻撃を計画したんだ。
A 琉球の莫大な貿易利益を狙ったんだね。
B たぶんそうだろう。船団を用意した国秀は途中薩摩に寄港した。しかし、ここで島津氏は国秀を襲い、船団を殲滅したんだよ。
A 島津氏は琉球を助けたの?国秀に貿易を独占されるのが嫌だったの?
B その通り。この事件の直後、琉球王国に島津氏は報告書を送っているんだ。それは
「琉球を攻めようとしていた三宅なる者を誅殺しました。これからも仲良くお願いします。」
と言うものだよ。
A なんだか恩着せがましいね。
B そうだね。でも、あくまで島津氏は琉球王国との関係を保とうとしていたんだ。
A 琉球貿易の権益に対する野望が見え見えだけどね。でも、外交術としては合格なのかな。

B九州北上に見る薩摩外交
B そのようにして身に付いた島津氏の外交術は島津氏拡大に際して極めて大きな役割を持ったんだ。
A へえ。でもどのように?武力制圧したんでしょ?
B 島津氏は常に同盟国を持ったんだ。
A さっき、遠交近攻って言っていたね。
B その通り。島津氏は最初、豊後大友氏と結んでいたんだ。
A でも、どうして?
B 大友氏と島津氏に挟まれた日向伊東氏と戦う島津氏にとって、伊東氏の援として北九州の覇者たる大友氏が南下する事はそのまま滅亡を表していたんだ。だから伊東氏と大友氏が結ばないようにしていたんだ。
A でも、大友方にも理由がないと同盟はしてくれないんじゃない?
B 大友氏も貿易を重視していたんだけど、南に行くにはどうしても大隅、つまり島津領を通過しなければならない。だから、島津氏と友好関係を結んで貿易船を寄港させてもらおうとしたんだ。
A なるほど。利害関係が一致したんだ。
B でも、大友氏と島津氏に挟まれていた日向の伊東氏が滅亡すると、島津氏は大友氏との盟約を破棄するんだ。
A もはや大友氏の利用価値が無くなったんだね。
B そして、高城川合戦で島津氏は大勝する。でも、豊後には攻め込まなかった。
A なぜ?
B 当時の輸送は主に海上だったんだけど、大友氏の水軍に立て続けに敗れてしまったんだ。だから、大友氏とまた同盟を結んだんだ。
A どうやって?一度破棄しているのに?
B 将軍を使ったんだ。将軍の仲介があれば、将軍家との関係篤い大友氏は従わざるを得ないし。
A なるほどね。
B そしてその間に肥後・相良氏の攻略を画策する。そのために今度は肥前の龍造寺氏とも手を結ぶんだ。
A あれ、巨大勢力二つと同盟?
B そして、あっと言う間に相良氏を下す。そうするとさっそく龍造寺氏と戦闘に入ったんだ。まあ、これは龍造寺氏が先に攻撃を始めたんだけどね。
A それで?
B 沖田畷合戦で龍造寺隆信を討ち取ると、龍造寺氏は島津氏に降伏したんだ。この時、島津氏の敵は大友氏しかいなくなった。
A 常に敵を一つに絞っているんだね。
B これは大切なことだ。例えば武田信玄は、晩年天下を急いだ事から敵を作りすぎて、大量の兵を各地に割かなければならなくなったんだ。武田氏が滅んだのも敵に囲まれたからだね。
A やっぱり、島津氏は外交も一流だったんだね。

関ヶ原合戦と島津氏
 慶長五年(一六〇〇年)、上杉景勝の上洛拒否を口実に、徳川家康による上杉征伐が決定。諸大名に参陣の命が下った。しかし島津氏は、島津義弘がわずかの兵を率いて上洛したに過ぎなかった。それは、島津領内での内乱で国力が落ちていたからである。
 しかし、島津氏が上洛した時、京では家康と対立する石田三成が毛利輝元を総大将に挙兵していた。家康の持ち城である伏見城は既に囲まれていた。
 三成より家康との方が関係の深かった島津義弘は東軍に属し、伏見城に入城することを望んだが、城将・鳥居元忠は拒否。義弘は孤立を恐れて西軍についた。
 しかし、西軍陣内では兵の少ない義弘は軽視され、悉く立案した作戦は却下されていた。
 九月十五日、関ヶ原で東軍と西軍は激突した。西軍・小早川秀秋の裏切りによってこの日一日で決着がつき、西軍は壊走。東軍が大勝利を収めた。
 この時、島津勢三千は全く動かず、静観していた。三成の使者が来ても追い返したほどである。そして、ついに西軍は敗れ戦場には島津軍しか残されていなくなった。退却するにも、敵が多いのである。
 ここで義弘は前代未聞の退却を行う。すなわち「前に」退却したのだ。これは後年「島津の敵中突破」と恐れられるものになるが、島津軍は大損害を蒙りながらも徳川の追撃軍にいた井伊直政・松平忠吉を負傷させ、本多忠勝を落馬させ、無事に退却した。
 戦後、島津義弘は蟄居した。代わって義弘の兄・義久が外交を担当。まず、島津氏は中立であり義弘は独断で戦ったことを表明すると、軍備を整えつつ和睦を提案した。
 当時、まだ政権の不確かであった家康には恫喝外交が良いと考えたのである。
 それは図にあたった。島津征伐するには政権基盤が弱い家康は、島津領の安堵を決定。こうして、近世統治下での島津氏が始まるのである。

薩摩人の外交能力
 本論のほうでは取り上げる事が出来なかった、島津氏の外交能力を示す逸話をいくつか挙げる。
 まず、九州征伐後の所領分割の時である。九州征伐で勝てないとわかった十六代義久はあっと言う間に降伏する。一方で弟たる義弘や歳久が秀吉に抵抗し続けた。
 これは、それぞれ独立して動いていたようにも見えなくもないが、おそらく島津氏は一貫して動いていたのだろう。討伐軍は既に兵站線が延びきっており、戦闘継続が難しかった。そのため抵抗し続ける事によって譲歩が引き出せると考えたのだろう。
 事実、秀吉は島津氏から薩摩・大隅を奪うことが出来ないと悟り、薩隅を安堵している。この後も歳久は常に秀吉に反抗し続ける。こうする事によって、島津侮りがたしという印象を植え付け、取り潰される危険性を減らしたのである。
 また、慶長の役の際、島津軍は他大名の援軍をわざわざ断り、二十万の明軍を撃破している。これも島津氏の示威であり、事実関ヶ原合戦の際にはこの武名が一役買っている。
 時代は変わるが、幕末史を眺めれば、薩摩の外交能力が衰えていない事が分かる。
 幕末、ひたすら尊皇攘夷と叫んで幕府に弾圧された長州藩と比べ、薩摩藩は薩長同盟を結ぶまで会津藩と同盟を結んでいた。
 こうすることによって、薩摩藩は京都における権力を保持し続けることとなるのである。さらに、会津と結んでいた事によって薩摩藩士が新撰組などに襲われることもなく、薩摩藩での人材枯渇を防ぐことができた。
 そして、時代が転回するに従って薩摩藩は長州藩と手を結んで会津・幕府と手を切って討幕運動を開始する。
 これは、幕府側から見れば卑怯以外の何者でもないかもしれないが、薩摩にしてみればれっきとした外交戦略である。幕府も長州も会津も、薩摩の外交戦略を見抜くことができなかったのである。
 司馬遼太郎氏は薩摩について、日本で唯一外交の上手であるとしている。これは至極最もなことである。「猪突猛進」の印象が強い薩摩であるが、このように外交政策は一流であり続けたのである。様々な外交問題を抱える現在の日本も、薩摩に学ぶところは大きいのではないだろうか。

家久の伊勢参り
 天正三年(一五七五年)、島津氏は悲願の薩摩・大隅・日向の統一に成功した。
 そこで、十五代貴久の四男・家久は伊勢へお礼参りすることとなった。家久この時二十八歳。
 家久はこのときのことを日記に書き残しており、その日記は現在「中書家久公御上京日記」として残されている。
 この旅で家久は、連歌師・里村紹巴の弟子の家に宿泊している。そして明智光秀と面会。この時、明智光秀に茶の湯を勧められたが、作法がわからなかったため白湯を所望したという逸話もある。
 また、家久は京で、大坂から帰陣する途中であった織田信長の軍勢を見物している。
 これらの話から、当時の織田氏と島津氏の関係が伺える。島津家久が明智光秀によって接待されていることから、島津氏と織田氏は極めて近かった事が推測される。
 この旅から戻った家久は、再び島津氏の一武将として、力を発揮していく。


結論
◎薩摩の日本史上における「意義」
A 島津氏は薩摩を制圧する過程で、独特の機構を築いていくんだ。
B それはやがて薩摩に留まらず、大隅・日向・肥後へと広がっていくんだね。
A その制度はもはや流動的である中世的封建制というよりは堅固な近世的封建制に近かったんだ。
B それはなぜかな?
A 薩摩人の革新性というものが大きいんじゃないかな。辺境だからね。辺境と言う土地は中央と遠い代わりに他文化に近いんだ。その文化接触は革新性を生むんだ。
B 確かに、鉄砲を積極的に導入したのもその革新性というのが大きいね。でも、一方で北、つまり九州の他国に対してはとても閉鎖的だったんだ。地形的な面かな。
A それだけではないんじゃないかな。北に行くよりも南、つまり明や琉球に行ったほうが先進的な文化が入手できたし。
B つまり、薩摩の目線は北である中央(近畿)ではなく、南に向いていたんだね。
A でも、薩摩は常に中央を意識しているよ。文化も中央から積極的に導入している。戦国時代に前関白・近衛前久が逃げてきた時にもこれを鄭重にもてなしているね。
B でも、それはあくまで「羨望」に過ぎないんだ。例えば武田信玄や今川義元のように中央を占拠する「欲」はなかったんだよ。
A でも、それは距離的な問題じゃないの。薩摩から京じゃ遠すぎるよ。
B でも島津氏は、領土欲にとらわれて無理やり領土を増やす事をしなかったんだ。信長のように、天下布武にこだわって敵を増やし、包囲網形成で一時行き詰まってしまったのとはわけがちがうね。
A そういう意味でいえばとても現実的だったんだね。
B そうだね。また、全く目線が違う方向に向いているから、薩摩はいわゆる中央とは全く違った独立王国のようになっていたんだね。
A 他にも理由はありそうだね。
B 元々、薩摩が中央と一線を画したところであるということがあげられるね。閉鎖的であり辺境である薩摩は、中央への反抗心も大きかったんだよ。
A なるほど。でも、他の戦国大名とどういう風に違うの?
B 戦国大名は皆、京に目線が行っていた。しかし島津氏は京ではなく「南」つまり貿易圏に目線の先があったんだ。
A でも北に拡大していくよね。
B 天正六年(一五七八年)の高城川合戦までは自衛戦に近いものがある。おそらく、大友氏を破り、島津・大友・龍造寺の均衡を破ってしまったあたりから、止まらなくなってしまったんだろうね。事実、これ以後に獲得した領土ではほとんどが占領軍政のままであり、外城制度のもとには置いていないんだ。
A そして「薩摩」はついに中央政権と激突する事になるね。
B 天正十四年(一五八六年)に始まる九州征伐だよ。
A この戦いは一般的には中央政権に反する一大名を攻撃、屈服させただけのように言われるね。しかし実はもっと深い意味を持っているんだ。
B 西を固めた中央政権は、東にだけ目を向ければよくなるじゃない。
A そういうことじゃない。中央政権はいわば「近世の代表」であるんだ。
B さっき、薩摩は近世的であったって言っていたよね。
A でも近世まではたどり着いてないんだ。外城と言うものが島津氏に対し、まだ独立性をある程度保持しているんだ。その点中央政権では、石高制に基づいた徹底的な支配下に大名が置かれていたんだ。
B つまり九州征伐とは、「近世の代表」たる中央政権と、「近世的中世」を保持した「薩摩」の制度的衝突を含んでいたんだね。
A また、中央政権にとって、もはや中央から離れつつある「薩摩」という独立王国はそのまま存在する事を許す事はできなかったんだ。これは中央政権の、薩摩に対する侵略戦争だったんだよ。
B そして、九州征伐で島津氏は敗れるね。やはり、制度の差というものを実感させる結果となってしまったよ。
A この独立王国「薩摩」の滅亡が、九州での中世が終わった事を現しているんだ。
B やはり、「薩摩」は少し時代とは、ずれていたんだ。日本が中世から近世に脱皮する過程において、「薩摩」は敗北しなければならなかったんだね。
A そういうことになる。
B これ以降、九州は中央政権の近世統治下に収まるよ。
A でも、薩摩の独立性は保持されるんだ。
B そういえば、そうだね。得意の外交術を使ったんだね。
A そう。薩摩の兵が精強であることはすでに中央にも知れ渡っていた。だから、一事あれば徹底的に抵抗すると恫喝しつつ、降ったんだ。
B 貿易圏も利用したんじゃないかな?薩摩という国がなくなっても、薩摩の人たちは東シナ海に散れば倭寇として暮らしていける。中国との貿易を考えていた中央政権にとって島津氏が倭寇になるのはなんとしても防がなければならないからね。
A そういうわけで、九州征伐・関ヶ原と二度の敗戦を迎えながら独立王国「薩摩」は残ったんだ。でも、「薩摩」は中央政権にとって恐怖のものであったんだ。
B いつ再び立ち上がり、刃向かってくるかわからないからね。
A 「薩摩」は中央政権の意が届きにくい。また、外交術が上手いから腹の底が見えないとも言われていたらしいよ。
B 中央政権は、だから「薩摩」を押さえ込むために徹底した制度構築に励んだんだね。
A その結果が江戸幕府なんだ。
B 江戸幕府は薩摩藩を仮想敵国にしていたと言われているね。また薩摩藩も江戸幕府を仮想敵国にしていた節がある。
A 「薩摩」にとってみれば、中央政権の傘下にいるのは屈辱だったんだ。江戸時代は、それに耐える雌伏の時期だった。
B そして、そのエネルギーは明治維新になって爆発するんだね。
A その通り。その点でいえば、仮想敵国薩摩という江戸幕府の推測は正しかったんだ。
B 「薩摩」は、ついに近代への扉を押し開くんだ。
A しかしその薩摩自身は、まだ独立王国の体を示していたんだね。でも、薩摩のお陰で成立した中央政権は近代システムを採用したんだ。そしてその近代システムは独立王国の存在を赦さなかったんだ。
B だから再び中央政権と西南戦争で戦を交えるんだね。これで薩摩は負けてしまったよ。
A これが、まさしく「薩摩」の終焉だったんだよ。これ以降、近代システムの中に組み込まれた鹿児島は一地方都市に成り果ててしまう。
B ここまで見てみると、薩摩と言う所は中央政権の変革に、必ず関与しているね。
A その通りだね。
B 薩摩という所は、日本史において、やはり「触媒」ではないのかな。
A 「触媒」?化学反応を促進する物質でしょ。要するに、変革を促進したってこと?
B そういうことだよ。近世への変革を推し進め、また近代への変革を推し進めているんだ。すべてこれは薩摩が関与しているよ。それら日本史上重要な変革に関わっているのは、偶然ではないよ。
A ただ、その独立性からすると中央政権とは相容れないものがあるんだ。だから中央政権変革の「触媒」にこそなれ、中央政権たりえなかったんじゃないかな。
B 薩摩はあくまで「反応物質」ではなく、「触媒」だったんだよ。だから、西南戦争まで近世的中世制度が持続していたんだ。変革を促進こそすれ、自分達は変革しなかったんだ。
A それが薩摩の特質であり、同時に薩摩を「触媒」たらしめたんじゃないかな。
B 薩摩が独立王国だったからこそ、中央の変革を促進したんだね。そして独立王国であるがため、近代という独立王国の存在を赦さない制度に至って崩壊したんだよ。
B でも、「触媒」という点で薩摩は極めて重要な役割を果たしているね。薩摩があり、独立王国になっていてこそ日本は時代を脱皮し、発展する事ができたんだ。
A つまり日本史において、薩摩は欠かすことの出来ない「触媒」であったんだね。

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