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其の四 中央権力の増加は何を意味したか
第1章 斯波・細川管領時代
観応の擾乱後、執事は仁木頼章・細川清氏といった、格が低くても足利一門が就くようになり、権威が上昇した。清氏は関東執事畠山国清と組んで主導権を握ろうとしたことから排斥されたが、嫡流に次ぐ家格の斯波義将が父・高経の後見を受けて就任する。執事は管領と呼ばれるようになり、将軍権力の代行者となっていった。
将軍権力を強化するためには、力を付け過ぎた守護大名や荘園領主の力を削ぐことが必要だった。そのため管領は、有力守護や荘園領主と対立を深める。幕府の主導権争いも絡み、1366年に斯波親子は細川頼之・佐々木道誉らによって失脚させられてしまう(貞治の変)。
元来病弱であった将軍義詮が子の義満の後見を細川頼之に託し死去すると(1367年)、頼之が管領となり政権を握った。しかし基本政策は変わらず強大な守護勢力を抑え込み、そのバランスの上で将軍権力を安定化させることだった。 それでも頼之政権下では斯波氏と同じ理由で細川派と斯波派に有力守護が分かれて対立する状況に陥ってしまい、頼之は斯波義将らの運動によって失脚し、替って義将が管領に復帰した(1379年・康暦の政変)。
畿内での南北朝の争いも既に終息に向かいつつあった。山名・大内という有力守護が帰順し北朝優位で対立が終結することは明らかな状況だった。南朝方でも帰順派と抗戦派が対立する状況となり、楠木正儀などは何度も北朝・南朝を行き来したが、畿内の政治情勢は幕府を軸に安定していった。
半済令と守護
半済令とは、本来守護に認めていない徴税権を、特例として半分だけ与えてしまう制度である。もとは観応の擾乱時に激戦地に与えられたものであったが、なし崩し的に広がり、恒久化してしまったものだ。これにより、その土地で土着し力を蓄えることが難しかった守護は、安定財源を獲得し力を大いに伸ばして国人を家来とし、幕府政治を左右できるほどの力を手に入れたのである。
管領はこうした傾向に歯止めを掛けねばならず、寺社の権益を取り戻す政策を展開する。管領が失脚に追い込まれるなど、成功しなかった。結局幕府は既成事実化した半済を留めることはできなかった。それは、幕府が守護権力を根本から削ぐすべを失ったことを意味していた。
一揆
政治情勢は安定したが、一方で社会が安定したとは言い難い。本項では南北朝時代後期以降多発した一揆について扱う。
まず一揆という用語について定義しておくと、一揆とは「それぞれが掲げた様々な目的を達成するための特殊な集団」のことである。このことは一揆という集団自体が、目的を達成したときに自然と分解していったということでもある。
また、当たり前かもしれないが、一揆はその当時困っていた人々で形成されやすい。当たり前かもしれないが、この事は重要である。何故なら、その時代に多かった一揆の分類、中心を担っていた人の身分、一揆の主な目的を調べることにより、その時代の時代背景が分かるからである。では、南北朝時代にはどんな一揆が多発していたかというと、主に土一揆である。
この土一揆の名の由来は、字の通り土民が中心となって形成されていたからである。また、この土一揆は、その殆どが徳政令を施行させることを目的とした徳政一揆である。では何故この時代の土民たちは徳政令を望んでいたのだろうか。この時代になると、土民は土地と深く結びついた人々として共通認識を持つようになる。また、この時代は土倉等の高利貸しが農村に進出してきた時代でもあった。すると、高利貸しは土民の土地にも手を伸ばし始めた。そして、高利貸しは土民に課税し、貧困化した土民が徳政令を施行させようと一揆を結んだのだ。南北朝時代の一揆は土一揆が主である。一揆の種類には他にも国一揆や一向一揆などがある。それらが多発した時代は、南北朝時代とは違った時代
背景を持っている。結論を言えば、一揆というのは、多発していた一揆の種類によって時代背景を表したということである。
第2章 足利義満
頼之の指導下で成長した足利義満は、まず守護大名への抑え込みから始めた。将軍直轄軍である奉公衆を充実させて実力の背景を作ると、各地を巡り将軍の権威を見せつけ、各地の守護大名に対し心理的圧迫を与えたのである。それだけでなく、土岐・山名という外様だが幕府創業の功臣である大守護大名をお家騒動に乗じて挑発し、勢力を大いに削いだり、九州で内政的にも外交的にも自立しつつあった九州探題今川貞世を解任したりして、自分の権力の障害となる有力大名を粛清し、武家社会における頂点としての地位を強化した。
次に義満が狙ったのは、公武の頂点に立つことである。1392年に南北朝合一を果たすと、翌年には太政大臣に上った。さらに准三后待遇となり、名実ともに貴族社会の頂点にも君臨した。さらに出家して将軍の地位を子の義持に譲り自らは北山第を作っているが、これはもはや世俗を超越した立場に立つことを意味したのである。
しかし、内政を掌握した義満にとって、解決していない問題があった。外交である。中央王権が分裂してしまったことで、明や高麗(朝鮮)は実際に北九州を握っている勢力を日本の代表とみなして外交を行っていたからである。征西府の懐良親王が「日本国王良懐」とされていたことや、島津・少弐・大内が単独で使節をおくり、交渉を持とうとしていた。島津・少弐・征西府は今川了俊がすでに抑え込んでいたので、義満は大内義弘を挑発、これを撃破して後顧の憂いを絶つ。明に使節をおくり冊封を受けて「日本国王」の称号を手にするとともに、貿易で莫大な利益を得たのである。
栄華を極めた義満に対し、朝廷は太上天皇の地位を用意しようとしていた。義満自身もそれを望んでいたらしく、自分が上皇となることによって溺愛する義嗣を皇位につけようというもくろみだったようだ。しかし義満は1408年急死し、夢は断たれることになったのである。