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其の三:混迷する九州
第1章 鎮西設置
元寇後、鎌倉幕府は異国に対する警戒態勢として、異国打手大将軍が決定され、北条兼時、時家を九州に下向させた。結果その後、元による襲来はなかったが、彼らは異国警護をやめることはなかった。異国打手大将軍は次の金沢実政の代からは鎮西探題と名を変え、九州の地に幕府から派遣された出先機関として続いていったのだ。
だが、鎮西探題は九州在地の勢力にとっては快いものではなく、鎮西探題に対し多くの御家人は反感の意を抱いていた。第一に戦地となった九州の御家人に対する恩賞はわずかなものであったこと。防衛戦のため、領土を奪うことがなかった幕府は、彼らを満足させるだけの土地がなかったのである。第二に裁判において、御家人保護よりも寺社、荘園領主の保護姿勢が顕著だったこと。両方、御家人達にとって不利益であり外かきたら幕府の手先に対し良い感情を抱くはずがない。
また御家人だけでなく、元寇の際、幕府に徴用されそれに応じた御家人の庶子、非御家人たちにも不人気であった。彼らが既成の御家人との独立をめぐる争いで有利な立場を得るためという思惑で元との戦に参加したのに対し、裁断権を持った鎮西探題はどっちつかずの対応し、両者の不満をただつのらせるばかりだった。
結果、1333年菊池武時が鎮西探題に討ち入る。幕府に対し九州在地勢力の不満がたまった末の結末といえるだろう。
なぜ裏切り
鎮西探題の下向は九州でいままで勢力を誇っていた守護勢力にとっても邪魔なものだった。いままで鎮西奉行少弐氏が実行していた外交権は鎮西探題に移ったことで失われ、彼らは既成の権利を奪われていた。確かにそれは快いことではなかったが彼らは依然として有力守護として君臨しており、倒幕運動の流れが決定的でなかった時勢において鎮西探題襲撃という博打に出る必要はなかったのだ。
また菊池氏は鎌倉以前に九州防備のために下向してきた藤原氏一族で、大友、少弐両氏は肥後に大きな勢力を持っている菊池を快くは思っていなかったのだ。
結果少弐、大友両氏は菊地武時を見捨てた。少弐、大友氏と菊池氏の間に深い溝を作ったのはいうまでもないことであった。
第2章 多々良浜と鎮西探題 概説
鎮西探題陥落から三年後、1336年。早くも建武政権は崩壊し、鎌倉では足利尊氏が挙兵した。だが宮方の軍を相手に次第に劣勢となり九州へ落ちのびた。
足利尊氏は少弐、大友、島津に迎えられ再起をはかろうと試みるがそれに対し立ち向かったのは少弐、大友ら有力守護から主導権を奪還しようと宮方に味方した菊池武敏であった。
当時、時勢は大方宮方優勢という見方が強く、多くの九州の在地武士が菊池軍に味方した。菊池軍に対し足利軍は圧倒的少数。数の上では優勢であった。一方尊氏にとってはここで負けたら後がない。
両軍は多々良浜の地にて激突した。
両軍は一進一退の攻防を繰り返した。だが足利軍には有力守護少弐、大友氏らといった有力守護、宗像大社、宇佐神宮などの寺社の助力を受けており、さらにかねて九州在地武士団に対する工作も進められていた。
一方菊池軍は自らの利のため優勢に見える菊池軍に加わっただけの場合が多く、所詮烏合の衆、結束などしているはずがなかった。
敵軍を見ただけで水軍、松浦党は降伏してしまい他の味方も寝返るものが続出し、菊池軍はこれを見て敗走。肥後へ逃げ帰った。
戦に勝利し、危機を脱した尊氏は東上する。だが抵抗の姿勢を崩さない菊池軍も見捨てておけず、一色範氏を九州に残した。
多々良浜において尊氏は少弐、大友ら有力守護に大きな借りをつくることとなった。九州を立つにあたって彼にとって九州探題設置は九州統治のため必要なことであった。しかし彼ら有力守護の視点から見てみれば、なぜ鎮西探題を倒すため、建武政権、引き続いて足利政権に守護分権的要求のため味方した。だというのにまた新たに九州探題というものを設置され一色氏の指揮下に属するというのは到底許せないことだったのだ。
一色範氏が九州に頼りとなる手勢を持たなかったことも加わり彼の九州経営は困難を極めた。だといってすぐに追い出されたわけではなく、有力守護に対抗するため九州探題を担ぐ在地武士団もいたため、結果18年も在任することとなる。
第3章 直冬と懐良
中央ではすでに尊氏が京都を奪還。だが直義、師直の対立が顕在化し、観応の擾乱を迎える。その煽りを受けて九州にやってきたのは足利直冬であった。
もともと足利直冬は直義に、西国統治の任を与えられ、長門国に下向させられていた。彼の任務は備後以下八カ国の支配であり、ずいぶん広い所領を占めていた。
だが幕府内での直義、師直両者の抗争は激化し、師直によって直義は政務から追放されてしまった。
後ろ盾がいなくなってしまった直冬に対し、実父尊氏は討伐軍を差し向ける。
結果、直冬は四国に逃れ、まもなく肥後の川尻幸俊に迎えられ肥後国に入る。直冬は有力守護を味方につけて九州に風雲を巻き起こすことになる。
一方、もう一人同時期に九州へと下向した人物がいた。南朝では京都奪還のため各地方に親王派遣を計画されていて、九州に下向したのは親王の一人懐良親王だった。注;だが当時懐良は幼すぎたので最初の方は補佐役五条頼元の果たす役割は大きかった
しかし彼は容易に九州入りすることができず、1336年に出発し、結果薩摩についたのは1342年のことであった。幕府勢力の強い北部九州を避け、豊後水道、日向灘を南下して薩摩に上陸したからである。
しかし、彼らは一色範氏と同じように九州に確固とした勢力をもたなかった。そこで、薩摩の地での守護島津氏、国人層谷山氏の現地支配権をめぐる争いに目をつけた。島津氏が幕府側に味方したため、谷山氏は南朝側を支持したのだ。このように懐良親王は守護と国人、惣庶の対立でどちらかの勢力の旗印となって勢力を作っていった。
だがその後躍進はなく五年半、懐良親王一行は谷山氏のところに滞在した。この間、肥後国を中心に強い勢力をもっていた阿蘇氏の誘引に心を砕いていたが、阿蘇氏内部の惣庶の対立のためうまくいってはいなかった。庶子である恵良惟澄は南朝支持派だったの対し、惣領惟時はどっちつかずの立場をとり政治的立場を明確にしなかった。
南朝側の阿蘇氏に対する期待は大きく、この時期の綸旨、令旨は集中的に阿蘇氏に対して送られている。
だが結局、惟時は北朝側について失敗に終わった。
仕方なく、懐良は瀬戸内、熊野の海賊の力を借りて肥後に入る。すると惟時は御所に参上、懐良に面会する。実に自らの利のため立場を変える当時の武士らしい行動だ。かといっても期待に反し惟時はその後も優柔不断な態度をとり続けた。そんななか、菊池氏の惣領、菊池武光が彼らに接近。菊池氏の館を御所に定め、1348年懐良は菊池で成人(このころの成人は特に定まっておらずだいたい20歳ごろ)を迎えることとなる。
天下三分具体的
直冬、懐良の下向の結果、九州は以下の大きく3つのグループに分かれた。
@足利尊氏に派遣された九州探題、一色範氏ら
A九州探題に不満を持つ守護勢力、少弐氏や大友氏、直冬を担ぎあげる。
Bもともと守護と対抗するため宮方についていった菊池氏、阿蘇氏などの在地勢力 懐良親王を旗印とする。
また中央でも観応の擾乱により三勢力に分かれた。
@ 氏側A直冬らB南朝側
九州の三分図が観応の擾乱の余波を受けていることは確かだが、正確にいえば、例えば先ほど述べたように直冬は直義側というよりは尊氏、直義の調停者としてふるまっていたなど微妙に中央と九州では勢力の分かれ方には違いがある。南朝だろうと北朝だろうと、担ぐ相手でしか考えていない在地武士団達の利害が絡み合ってこの九州の勢力はなりたっているのであって、中央との完全一致を示すはずがないのだ。かといって、中央から完全に独立しているわけではなく、中央の勢力の減衰の影響を大きく受ける。
勝ち目のある方についた方が利を得られそうなのは当然なことであり、九州での勢力バランスが中央と連動しやすいのは当然であろう。
第4章 直冬無双
まずこの三つ巴において、先手をとったのは直冬だった。九州御三家である少弐頼尚の支援を受けた直冬は九州探題を攻撃し、一色範氏を肥前へと敗走させることに成功する。九州探題側は窮地にたたされ、これを救うべく尊氏は自ら軍を率いて西へと進んだ。失脚していた直義が挙兵し、京都を襲ったため尊氏は京へと引き返すが、直義軍に敗北、ついには降伏。腹心の師直兄弟は殺害され、政敵のいなくなった直義は圧倒的優位にたった。直義軍の優位に連動して、九州での直冬も大勢力を築いた。
隆盛は長くは続かず、支援者の大友氏に見限られてしまう。大友氏は南朝、長年の敵一色側と結び、大宰府に攻めよせた。あえなく直冬は長門へ遁走し、九州への影響力を失ったのだった。
大友の裏切り理由
大友氏の裏切りには、直冬に問題がある。
直冬は将軍文書に近い形式で大量の所領安堵、勲功賞授与を行った。だが多くの場合それは敵方についた武士の所領であった。武士が安堵を申請した所領の中には自分の支配が及ばないところもあったが、現状を把握することをする労をとらなかった。恩賞をもらう側にとっては、すぐに収益が上がらない上、多くの場合が空手形に終わってしまう。信用とともに次第に求心力を失った。
直冬は幕府から一色範氏に代わり鎮西探題に命じられており、九州探題に対抗するため彼に味方してきた守護を失望させた。中央における尊氏が勢力を盛り返し、直義を撃破。結果、利用価値のなくなった彼は裏切られたのである。
第5章 征西府無双外接
観応の擾乱の影響で、武家方が激しく争いを繰り返している間、懐良方は何をしていたかといえば、待った。漁夫の利を得るためだ。台風の目直冬、九州探題、そして少弐氏が争っている間は彼らにとって格好の力を蓄える好機であった。
観応の擾乱のさなか、1351年9月、菊池武光は五条頼元・恵良惟澄らとともに筑後を攻め、筑後府に軍を進めるなど大きな戦果をあげ、着々と勢力を拡大していった。
直冬を追い出すことに成功した後、一色範氏・大友氏泰は宮方から離れ武家方へ続々と復帰する。一方、少弐頼尚は直冬の敗北により大きく勢力を失った。
九州探題側は、今が好機と少弐氏に猛攻をしかけた。少弐はここで因縁の相手菊池氏のいる懐良方に救援を求めた。
1359年、針摺原において一色軍と菊池、少弐連合軍は衝突し、結果一色軍の大敗に終わる。針摺原の戦いにおいて勝利した菊池武光は快進撃をつづけた。肥前、豊後国府を次々と陥落させ、博多へ侵攻した。一色範氏はとめるすべなく九州探題の任を放棄、京へと戻った。
その勢いで菊池武光は日向国の畠山直顕の攻略に向かう。だが守護勢力が菊池氏の勢力拡大を許すはずがなかった。日向国攻略のため、出払ったのを見計らって、宮方についているように見せていた大友氏時は挙兵した。前後に敵ができてしまった武光だが、電光石火で反転し、少弐頼尚を大友征伐に向かわせるも、少弐頼尚にも裏切られてしまった。
しかし菊池勢は懐良親王を戴き、北上。両軍は筑後川で向かい合い、菊池軍は多大な犠牲を負うも少弐頼尚を破ってしまった。
2年後残敵を掃討し、宮方は1561年8月遂に念願であった大宰府入りを果たす。その後懐良軍の隆盛は12年も続いた。ついに1371年、九州に大勢力を築いた懐良のもとに明の使者が倭寇の取り締まりを求めて訪れ、明の冊封を受けて、日本国王に封じられた。
明から日本国王として認められたのは南北朝両天皇のどちらかでも将軍でもなく、懐良であった。明は倭寇の取り締まりを強く望んでおり、倭寇が荒らしていたあたりの制海権を持っていた懐良を見込んで、明は懐良を任命したのである。
征西府の独自性
天皇を差し置いて日本国王として認められた懐良勢力、別名征西府の独自性は見逃せない。
征西府は早い段階から吉野から強い地方分権を認められていた。例えば、所領給与権について、南朝は直奏を禁じ、懐良の令旨で処理することを定めていた。とはいえ、天皇の綸旨はなかったわけではない。しかし、それは宮廷混乱期の一時期に際立っており、特筆するべきことではない。61年の大宰府制圧以降は、懐良の令旨でほぼすべて処理されるようになる。
そもそも、国人の去就と恩賞の軽重はある程度相関関係にあるため、実際にその土地に関わりのない中央が沙汰するよりもその土地の行政官が施行した方が的確であったのは確かだ。
直冬がその過程において、実際に調査せず、空手形ばかり発行し、経営に失敗したことはすでに述べたが、その点、懐良は国人(注進)→征西府(調査、給付)→国人という流れのシステムをとっていた。これは地方分権がきちんとシステム化され行われていたことを示す。
懐良の九州勢力とははたしてなんだったのだろうか?ただの京都を奪還するためだけの地方勢力だったのだろうか?むしろ、懐良の勢力はその役割が変化していったととられるだろう。はじめは確かに京都奪還を目的としたサブ勢力のようなものだった。だがしかし、南朝衰退の中、中央、東国において主導権を失っていき南北朝後期、九州における懐良の一大勢力のみが輝いていた。サブ勢力というよりは吉野と同じくらい大切なポジションに代わっていたのである。
懐良の令旨の武家文書化に代表されるように、九州で懐良がとった在地勢力と取り込む過程で政権が南朝の出張機関というより武士の連合政権という役割を持ったことも考えられる。特に文書が武家化したのは直冬の勢力を吸収したころであり、文書の書式はやはり政権の構造の少なからず表していると思われ、その政権構造の変化が吉野から独立した武家政権であるという印象を与えている。
このような動きを九州勢力の独立国家化と考える向きもある。だが懐良自身の手記を見てみると全盛を迎えていたころ隠居したいといった意味の歌を残しており、独立国家として、積極的に活動しているようには見えない。むしろそういった中央から離れていく内部の構造の変化が外国から国王と認められるくらい外からの征西府の印象の変化をもたらしたではないだろうか?
実際このあと征西府が京都奪還のため、軍を派遣することはなかった。懐良に京都奪還の意志がはたしてあったかはさだかではない。
第5章 今川了俊
征西府が九州において全盛期を築いていた間、幕府の焦りは募っていった。斯波氏経、渋川義行を相次いで派遣するが前者は大敗、後者は九州に入ることすらできなかった。
当時、征西府は九州だけでなく瀬戸内海西部の制海権をもっていたのであり、征西府の優位は確定的なものだった。
幕府は九州攻略の糸口として今川了俊を派遣する。了俊は1371年2月に京都を出発、12月に到着する。このゆったりとした下向には理由があり、中国の諸勢力を組織、九州の武家方にも周到な工作を施していた。
了俊は、征西府側の間隙をつき、三方から大宰府を包囲、1372年8月大宰府を陥落させた。大宰府での敗北がもとで征西府の繁栄は終わりを告げた。菊池軍は親王を伴って肥後に撤退する。
了俊の九州経営は軌道に乗ったかに思われたが、了俊の勢力は了俊が軍勢をもって下向したわけでないので在地勢力を吸収したもので完全に心服したものではなかった。
了俊は菊池軍を壊滅させるべく島津氏久・大友親世・少弐冬資の九州御三家の参陣を求めた。だがしかし少弐冬資は参陣せず島津氏久が働きかけてやっと参陣する。すると了俊は宴席で冬資を暗殺してしまう。氏久にとっては面目をつぶされたのに他ならない。氏久は激怒し帰国し、強く反発する。
そもそも、了俊は外から軍勢をもたずにきた者に過ぎず、九州御三家として依然九州に影響をもっていた島津家にとっては了俊に統治されるのは気にくわなかった。了俊も、やはり尊氏と同じように在地に勢力を持っている武士団を家臣化する上での問題に直面した。
結果、少弐冬資本暗殺は在地勢力の反発をうみ以後の了俊の九州経営を困難なものとする。
1391年には了俊の優位が確定し南北両軍は停戦した。翌年5月には氏久も没し了俊の九州経営はひと段落をむかえる。これで九州統一を迎えたといえるが、一方で大友、島津の両守護は完全に心服したといえる状態ではなかった。
九州統一を果たした了俊であったがその功績は大きすぎた。
了俊は大友、島津など御三家クラスは心服していなかったにしろ、武家・宮方問わず在地勢力を多く取り込んでいった。了俊は征西府を基盤としてその役割を継承して在地武士団の要求に答えていった.
しかし、功臣の自立化を警戒する足利義満によって、1395年電撃的に解任されるのである。
コラム・倭寇
当時の東アジアの国々が脅えていた海賊、倭寇。「倭」という字が入っていながら、彼らは純粋に日本人のみで構成されているわけではなかった。
倭寇は、「三島の倭寇」と呼ばれ、現在の対馬、壱岐、五島列島を本拠地として島民が朝鮮半島・中国沿岸を荒らして回ったと考えられている。彼らは何故盗賊となる必要があったのだろうか。
当時の国境は、現在の様に「線」のきちんとした区切りではなく、曖昧な「面」であった。それ故に「面」に生きる国籍を持たない人たちが諸国家に対し反感を抱くことも度々あった。
資源のない三島においては、元々貧しかった暮らしが、元寇によって一層厳しいものになり、その困窮に耐えきれなくなった島民たちは海賊として周辺国の沿岸を荒らし、劫椋を繰り返すのである。
時は南北朝動乱の激戦期であり、九州では南朝が優勢であった。中央の求心力が弱まっていたのは朝鮮でも中国でも同じで、三島の島民による海賊行為は、やがて「境界面」の住民による諸国家への反乱という構図に成り代わっていた。
そして、義満は南朝討伐と並行して倭寇を打ち破り、1401年、「日本国准三后源道義」として、明との通交を開始し、勘合貿易を条件に倭寇の禁圧・冊封関係を任じられる。日本との外交においてあくまで明側の目的は倭寇の禁圧であった。