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其の二:東国の動乱

鎌倉幕府の所在地であり足利氏が反逆を起こした地でもある武家の地・関東と南朝方の地盤で長く戦乱が続いた東北について記述する。

東国での討幕運動
概説
鎌倉幕府の所在地であった鎌倉は室町幕府が成立しても物流の拠点の大都市であり、足利氏も武家の都であるここを重要視していた。そのため倒幕運動が始まり新田氏が鎌倉を攻めるとわかると、六波羅を攻める足利氏はすぐに家臣の細川和氏らを新田氏が攻略していた鎌倉に入れ支配権を奪った。そして貴族の北畠顕家が陸奥守、御家人の中で筆頭格の足利尊氏が武蔵守の就任というように地方へ有力者の派遣が準備されたのだ。関東は1334年に足利尊氏の弟である足利直義を鎌倉将軍府の成良親王の執権として入府させ南関東を軍事支配している。このようにして足利氏は関東の武家を勢力下におき地盤を固めることに成功した。
東北では、建武の新政が始まった直後は中央から親王や役人を送れないので東北の武士で最も功績をあげた結城宗広が代理として陸奥を治めることが言いつけられた。そして奥州にも多賀城に陸奥将軍府がおかれた。ここに義良親王が送られ、それを補佐する陸奥守が北畠顕家であった。当時の奥州は植民地的な遠方の存在であり、北畠氏は入府を嫌がったといわれる。しかし後醍醐天皇は北畠顕家の入府にこだわり、奥州は関東と同じように独自に統治された。というのも奥州は国土の多くを占める上に脅威となりうる足利家の本拠地・関東の背後を突ける位置にある重要な土地だったのだ。また奥州だけを奥州武士が参加し統治する組織の誕生は奥州の自立にもつながった。このように奥州に天皇に忠実な勢力を作っておいたことが後で役に立ってくるのである。
1334年には蝦夷征伐以来役割が薄れていた多賀城が再興され鎌倉時代の奥州留守職の後継として北畠顕家の奥州統治が始まった。ここでは親王と顕家の下に式評定衆、政所執事、評定奉行、寺社奉行、安堵奉行、侍所というように鎌倉時代と似た職が作られ、式評定衆には結城宗広、親朝や伊達行朝ら奥州の有力武士や顕家と共に来た貴族が任じられた。その他の役職にも奥州の諸武家が任じられたが、鎌倉幕府のもとで陸奥留守職の留守氏と奥州総奉行の葛西氏は、討幕運動に参加しなかったので排除された。また、国府の外の武士たちには検断・奉行・国代という名で領地の行政を行った。この例が総領家は甲斐が領国でありながらこの時期に八戸に拠点を作った南部師行であり、彼は国代として八戸一帯の勢力となった。このように、政治制度が整い顕家は領内の北条氏の残党を討伐し奥州支配を完成させて行ったのだ。

「植民地」東北
東北といえば平安時代の蝦夷征伐を持って朝廷の支配下に組み込まれたわけだが、他と同じ国土の一地方としての東北が形成され初めたのは、成功はしなかったがこの南北朝期だと考えられる。
鎌倉時代までの東北というものは、太平記で「奥州五十四郡あたかも日本半国に及べり」といわれるほど広く、平安時代に獲得した領地に入植した藤原氏が平泉という大都市を作り上げ、平泉文化の形成を目指していた。しかしそれはあくまでも植民地である。というのも平泉が栄えたのは中で回す経済によるものではなく、中央への金や馬の輸出が前提の経済、つまり植民地型経済のおかげである。
また、この藤原氏が奥州征伐で倒された後の東北は未開の地であり特例で国ごとの守護地頭がおかれず、郡ごとに御家人に分配された。そして御家人が没落し領地を手放したり御内人になったりすると結果的に北条氏が受け継ぎ奥州は北条氏の力の源泉となった。この北条氏の統治も藤原氏と変わらない植民地型の従属的な経済を続けた。というのも、広いので入植して勢力を拡大することはできるものの、寒冷で居住や農耕に適さない地である東北に行くことは、普通は望まないことである。これは北畠親房が下向を嫌がることからもわかるだろう。
しかし建武の新政が始まると貴族である北畠顕家が天皇の要請で親王と多賀城国府に下向し、郡ごとではなく東北全体を強い力で管轄するものとして他の地方と変わらない政治を関東に対抗できる強さを持つ地方の形成のために在地の武家と共に行っていこうとするのだ。これが成功すれば東北は他と同じように、独自の経済を回す一つの地方になることができるのだが実際は数年で北畠顕家の政治は終わり、その後は内紛で国人たちが大きな力を持ち北畠顕家のような強力な統一勢力は現れず、戦国時代や江戸時代もずっと植民地的な統治が続くのであった。


足利氏の反逆
概説
1335年に鎌倉幕府の最後の執権・北条高時の息子の北条時行が鎌倉へ信濃国から諏訪氏等を連れて進軍してくる。鎌倉から迎撃する足利直義の軍は敗れ、幽閉していた護良親王を殺害し成良親王と共に矢作宿(岡崎市)へ落ち延び親王を京へ帰す。これで北条方が鎌倉を奪還したのだが、勢力が弱いので総追捕使・征夷大将軍任官を天皇に断られた足利尊氏が朝廷に許可を取らず勝手に東海道を進み救援するとすぐに鎌倉を奪還され、北条時行は信濃へ逃亡し、諏訪氏は自害した。
すると尊氏は帰還命令に背き、従二位を提案した勅使を無視し鎌倉に留まることを決めた。尊氏は帰還命令を出にそむき続け建武二年の京官除目で官位を失い新田義貞らによる追討軍を出され朝敵となった。こうなると尊氏は恐れて隠棲するが関東から迎え撃つ足利軍は新田軍を足利直義が迎え撃つもあえなく敗退し、焦った尊氏はやっと天皇と戦うことを決め新田軍を追い返し京都へ進撃し数々の戦いをこなして平定していくのだ。
また、足利家が反旗を翻した時、東北の北畠顕家と義良親王は足利軍を追うように結城・伊達・南部・相馬・葛西という東北武士を引き連れ常陸の佐竹氏、鎌倉の斯波家長を破り、東海道を進み京都の足利軍を追い出している。しかしその頃東北では足利方の相馬氏が多賀城で留守を預かる広橋経泰らと争い戦いが起こる。また、津軽の曽我氏も足利方に移り南部氏と争った。このような東北各地での足利勢力の伸長を知ると顕家は戻らざるを得なくなり1334年に奥州へ戻り途中の相模で斯波家長を、相馬氏の拠点の小高城をと破り多賀城へ帰還している。しかし足利方の力が強まると多賀城は守備に適さず急峻な伊達郡の霊山寺へ移る。中央での南朝の戦況が思わしくないため1337年に顕家は霊山を包囲している足利方を破りまた西進し利根川の戦いで足利義詮を破り鎌倉で斯波家長を自害させるも、京都攻略とはいかず摂津で南部師行・武石高広らと共に戦死している。この時奥州は顕家という強力な指導者を失ってしまったのだ。
足利家の関東支配の手口
ここでは足利兄弟の鎌倉の支配方法について見ていく。初め関東の統治は朝廷の設置した鎌倉将軍府の象徴的な頂点である親王の補佐を尊氏の弟、相模国守護の足利直義がしていた。尊氏は功績抜群で家格も高いが政権と距離を置き要職には就かなかったのだ。
しかし中先代の乱で直義が鎌倉を放棄すると直義は鎌倉将軍府の長官である親王を京へ帰し勝手に征東した尊氏と北条家を破るが親王を呼び戻さずに親王を頂点とする体制を崩し征東した尊氏と足利家という一武家による直接統治を行った。これは朝廷に背く行動だが、関東の武家は貴族政治を行う朝廷に不満を持っており朝廷より足利家を支持し支配を認めるのだ。この尊氏の政治への参加と直接支配からは足利氏が朝廷と決別し独自の軍事政権を作る考えがすでに出ていると考えられる。中先代の乱は足利家にとって、関東での武家政権樹立への武家の期待を踏まえて室町幕府の成立を進めた重要な出来事であったのだ。
足利氏の東北工作
関東を拠点とする足利氏は西進にあたって背後、つまり北畠顕家の率いる東北の武士たちを恐れていた。東北の武士は南朝方が多かったのでそのままでは背後を突かれてしまうのだ。そのため足利氏は東北へ工作をしていた。足利尊氏から奥州対策をする奥州総大将に任じられ、義詮を補佐するために鎌倉に残っていた斯波家長は、東北での勢力強化に努めて、東北で数少ない足利方である相馬家の惣領である相馬重胤を鎌倉に呼び、相馬領は相馬光胤に守らせて多賀城を攻める準備をした。ただ光胤の判断は相馬一族の中で分裂を起こし、分家の相馬胤平は南朝側についた。ここでも総領家と分家の利害が絡んだお家分裂が起こったのだ。そして斯波家長の工作は成功し足利方と北畠方の戦闘が始まると北畠顕家の配下ながら内通していた武石胤顕と岩城の伊賀氏を寝返らせることに成功し、東北にある程度の勢力を作ったのだ。家長自身は遠征から帰還した顕家に敗北し死んでしまうがその顕家の帰還理由が家長の希望であった東北の混乱なのである。

南朝の逆襲作戦
概説
戦闘の中心は京都の奪い合いのように西へ移っていく。とはいえ関東でも南朝方と北朝方で引き続き激しく戦っている。
中央で指導的立場の武将(新田義貞、北畠顕家、楠木正成ら)を失った南朝は各地方に親王を中心とする南朝の政権(小幕府)を樹立していくことをめざし、日本の半分を占めるといわれた奥州を確保するために1338年には南朝の指導的立場である北畠親房、倒幕時に功績を挙げた東北の武士である結城宗広と伊達行朝と義良親王、宗良親王が関東での勢力拡大のために派遣され、船が座礁するも親房だけは常陸国に着いた。当時の関東は、南部は鎌倉を拠点とする足利氏が制圧し、常陸など東北部は佐竹氏・小田氏などの武家が南北朝間で激しく争っていた。親房のたどり着いた常陸では北部の佐竹氏と大掾氏が足利方で、南部の小田氏が南朝方だった。そこで彼は戦死した息子である陸奥守顕家の代わりに陸奥守の職を代行しながら鎌倉府の軍と戦った。かの有名な神皇正統記を著したのはこの辺りである。
1339年に高師冬は大軍を率いて下総から常陸を攻めるも小田氏の頑強な抵抗で大きな損害を出す。だが足利方が上杉憲顕を新たに派遣するなど本腰を入れてきたため1341年ごろには北上を許し本拠地である小田城付近での戦いになる。親房は頼みの綱の白河の結城親朝に援軍を要請するも断られ、ついに小田治久は降伏し足利氏の勢力下になる。結城氏は宗広の時代は熱心な南朝方の家だったがこの時期は領国の白河が足利方に囲まれ援軍を送れる状況ではなかった。
すると親房は北に行き小山氏の一族の関氏の守る関城へ行く。ここでも親房は幾度も結城氏へ援軍を要請するが状況は変わらず援軍は来ないうえ、所領安堵を条件に結城氏が1343年に投降し満を持して攻撃する足利軍の前に関城は攻略され親房は吉野へ逃げ帰った。結城宗広の息子である結城親朝は父の遺言に背き南朝を見捨ててしまったがそのくらい不利だったのである。このようにして親房の関東での小幕府樹立計画は失敗した。
また、もう1つの関東を狙う南朝勢力として信濃の宗良親王がいた。この親王は北畠親房と共に奥州へ海路向かったが難破し遠江の井伊氏の所にいたのだ。井伊氏が敗れた後、親王は交通の要所である信濃国伊那の香坂氏の所へ向かい、そこから東国各国を訪ねたり正平の一統の時は新田義興と鎌倉を占領したりと30年ほど南朝勢力として暮らし信濃宮と呼ばれるが観応の擾乱以降は力を失っている。
では、東北はどうだろう。顕家亡き後の奥州の南朝勢力は石巻の葛西氏、信達の伊達氏、白河の結城氏、八戸の南部氏が主であり、多賀城を中心とする足利方と戦い、吉野からの親王と北畠顕信の到着と多賀城の奪回望んでいたが後醍醐天皇はすでに崩御し中央の南朝の勢力は弱まっていて1341年に北畠顕信が南部氏・葛西氏らと多賀城の石塔義房を攻めるが長年南朝方だった白河の結城氏の裏切りもあり失敗に終わり顕信は出羽へ撤退する。
つまり、東国全体でこの頃までに南朝の勢力はすっかり弱ってしまったのだ。


新田の逆襲と北畠の逆襲
戦乱が足利方に有利に展開すると、南朝方は中央の奪還をめざし地方から再起を図る。南朝の東国計画をまとめると、(1)北陸に逃れた新田義貞による京都攻略と(2)関東での抵抗と奥州の政治を代行する北畠親房らの船旅ということになる。
前者に関しては南朝方の気比神宮や井上俊清、新田氏の分家の支配下にある北陸に逃れた新田義貞が京都に近い敦賀から京都の奪回を狙っていた。新田軍は北陸に地盤を持っていたが高師泰や斯波高経らによる猛攻で一度金ヶ崎城を失い足利方の侵攻を許し、恒良親王を捕縛されてしまう。しかし落ち延びた新田義貞は反撃し、近隣の土豪と協力しついに越前国府を奪回し黒丸城の越前守護斯波高経を挟撃しようとする。だがここで協力していた平泉寺の僧兵たちが足利方に寝返ってしまう。これを討伐せしめんとした新田義貞は運悪く弓兵に遭遇し落命してしまった。この後は息子の脇屋義助が引き継ぐが今までのような戦いはできず、このようにして南朝の計画(1)は失敗した。
では(2)はどうだろう。成り行きについては概説で記述したが計画について見てみよう。南朝方の関東へ送った人間は南朝の指導者である北畠親房、倒幕で功を最も功を上げた東北の武士である結城宗広、そして義良親王、宗良親王である。これは敵が優勢な地方へ入り込み味方勢力を統率する危険な任務だが、南朝は失ってはいけないような重要な人物を送った。これは(1)のような単純に足利方を攻めて勝つというものではなく、自らが劣勢な地域に要人を送り込み現地の動かない武家を説得したり統率したりする戦略である。確かに、足利方が抑えている東国に勢力を取り戻すためには不活発な勢力を取り込んだり、南朝方の武家をまとめたりすることのできる要人が必要であった。南朝の計画は親王を筆頭とし北畠親房と結城宗広が在地の武家を統率するというものだったであろう。
このように、同じ逆転の作戦とはいえ安全な地で勢力を蓄え京都を狙うという(1)と敵地に要人が派遣される(2)では方針が異なったのだ。

東国での観応の擾乱
概説
観応の擾乱は関東にどのような動きをもたらしたかを見ていこう。
1349年に直義が失脚すると鎌倉の足利義詮が中央で直義の代わりをするために京へ戻る。この時に義詮の代わりに鎌倉公方として新たに送られたのが尊氏の二男の基氏とその執事である畠山国清である。そして1351年からの足利兄弟の争いは関東を戦場にした。正平の一統の後尊氏側である南朝に追討令を出された直義は京を脱出し鎌倉へ行く。また、鎌倉府では執事の直義派である上杉憲顕と尊氏派である高師冬が対立した。そして上杉憲顕は高師冬を鎌倉から追い落とし甲斐で討ち、直義を鎌倉へ迎える。しかし直義は駿河、小田原と打ち破られ1352年に降伏し死亡する。太平記では直義は毒殺されたとあるが根拠は薄い。そして、関東へ入っている北畠親房はこの乱による足利家の不和を利用し南朝方に号令をかけ、1352年に新田義興・義宗が上野で挙兵し征夷大将軍である宗良親王を奉じ、北条時行らと鎌倉をめざし進軍する。そして新田義宗と宗良親王を足利尊氏が迎撃し引き分けに終わり、2回目の戦いでは足利軍が勝利し新田義宗らは越後へ、宗良親王は信濃へ撤退する。別に動いている新田義興や北条時行の軍は相模の三浦氏に支援され鎌倉を一時的に制圧するも義宗が撤退したことを知り自主的に撤退し、河村城にこもり義興らは北方へ撤退するが北条時行は捕縛され処刑された。そして足利尊氏は関東の支配の維持のために翌年まで鎌倉に駐留し上杉憲顕ら直義派の守護たちを解任し尊氏派の武士を守護に任じた。これにより関東での足利尊氏の力が強まり南朝側の大規模な抵抗は終了した。
また、観応の擾乱の影響は東北にも広がっていた。1346年に足利尊氏は奥州管領として吉良貞家と畠山国氏の二人を多賀城に送り込んでいた。なぜ二人かというと、当時の幕府が尊氏と直義の両頭政治だったので尊氏派の畠山国氏と直義派の吉良貞家が送られたようだ。
この頃の南朝勢力は、最北の八戸の南部氏以外はかなり弱体化していた。しかし観応の擾乱が起こり、畠山国氏が尊氏方に、吉良貞家が直義方につくと1351年に二人の間に戦いが始まり、畠山氏・留守氏・宮城氏の軍が吉良氏を攻めるが東北各地の武士は吉良側につき畠山氏を攻めたため畠山氏が親子で討死し名族である留守氏も弱体化した。このような管領間の争いの間に南朝側は勢力を回復し、吉野からやってきた守永王と北畠顕信の次男である北畠守親が伊達氏、田村氏と共に吉良氏を破り多賀城を奪回して、出羽の北畠顕信が多賀城に入っている。しかし内乱に付け込んで一時的に回復しただけの勢力である南朝方は1352年に吉良氏に多賀城を奪われた。そして立て続けに宮城郡と本拠地である田村郡を攻略され北畠顕信は南朝方の安東氏のいる津軽浪岡へ逃げて行ったように観応の擾乱の終了で尊氏の力が強まると吉良貞家に支配権を奪われ、南部氏以外は抵抗をやめていった。
ここまでで関東と東北での観応の擾乱を見てきたが両者ともにこの乱は一時的な南朝勢力の回復になったものの本質的な強さは足利方のほうが上だということがわかるであろう。また、観応の擾乱の終結を持って東国での南朝の組織的な抵抗は終わったといっていいだろう。
観応の擾乱以前の室町幕府で足利兄弟による両頭政治が行われていたことは別章で記述した。ここでは両頭政治が関東・奥州という地方でも行われたことについて述べる。

地方での両頭政治
観応の擾乱直前に両頭政治が行われていた地方の役所は関東を統括していた鎌倉府と奥州を管轄する奥州管領である。この2つはどちらも遠方ながら広大で重要な地域を統治する大きな権限を持っているので、幕府の実質並列な権力者である尊氏・直義が自らの陣営のものを送ったのだ。2人の人間が頂点にいる組織がどのように統治したかというと、観応の擾乱直前の鎌倉府の場合は直義の陣営の上杉憲顕と尊氏の陣営の高師冬の2人が執事として鎌倉公方である足利基氏を支えていた。また、奥州では1345年からは奥州管領として直義の陣営の吉良貞家と尊氏の陣営の畠山国氏が統治していた。このように鎌倉府でも奥州管領でも2人による統治が行われていたが、特に分業は行われていなかった。これは中央の尊氏・直義の軍事と政治に担当を分ける両頭政治とは違うところである。そしてこのような体制の所に足利兄弟の戦いが起こったのだ。当然、両頭政治だった鎌倉府でも奥州管領でもどちらの味方として参戦するかで両者による戦いが起きた。そして、結果的に奥州・関東の両方で直義方が勝ったわけで直義は安心して鎌倉に入ることができたわけである。関東または奥州を相手方の好きにはさせないという足利兄弟の試みは直義方にとっては成功となったと考えられる。


桃井直常と北陸
ここでは桃井直常という武士を紹介する。直常は、上野の豪族で、新田義貞に属して鎌倉を攻撃し、その後は足利氏に従属した。1344年、越中守護になった直常は越中に入ろうとするが、足利方に従わない守護の井上俊清がそれを撃破し、能登まで進出した。その間に直常は京都に入り、足利直義に従った。直常が直義党に与したのは、戦功を高師直が無視したことに因る。そして、1350年に観応の擾乱が起こる。桃井直常は直義の号令に応じ、翌年北から京都へ侵攻した。そして直義と尊氏が和平を成立させたが、師直・師泰兄弟は暗殺され、尊氏と直義の対立は表面化してしまった。直常らのような直義の重臣たちを除いて尊氏と直義の争いでは尊氏側につく武士は多かったが直常は直義が没した後も南朝に属し、反幕府勢力として在りつづけた。元直義・直冬党の人間は南朝に降り、南朝の命を生き永らえさせる助けとなった。
直常が最終的にどうなったかというと、1371年に越中守護の斯波義将が加賀守護富樫昌家、能登守護吉見氏頼らと松倉城の直常・直信兄弟に猛攻を仕掛け、その後消息は不明となる。結果的に土豪の直常が30年間越中に君臨したのである。
このように北陸は地理的に京都に近い為に、中央政情の「戦場の舞台」とはなるものの、桃井氏を含める土豪が反政府の立場をとり続けていたように、中央と精神的な距離で離れた「地方」の風土が読み取れるのである。

混迷する東国
概説
観応の擾乱が終わると、関東では鎌倉公方・足利基氏と執権による安定した関東支配がはじまった。1358年に尊氏が死ぬと、将軍と鎌倉府が積極的に出兵し鎌倉府の軍が上野の新田義興を討ち、1362年には将軍・義詮と鎌倉公方・基氏は基氏直属の家臣団と対立する関東管領である畠山国清を罷免し、領国の伊豆を攻めて降伏させ、観応の擾乱で敗れ出家していた元執事・上杉憲顕を呼び戻し関東管領に任じた。また、憲顕に過去の職である越後国守護を現守護の宇都宮氏綱に断りなく与え、怒った宇都宮家を征伐しかけるが上杉家に権益を認めることで講和し、ここから上杉家が関東管領、越後国守護、上野国守護という役職を独占していくことになった。
また、東北では北朝方として奥州を平定した吉良貞家が1353年に死ぬと斯波家兼が新管領になったが、元奥州総大将の石塔氏、元管領の畠山氏と吉良氏が管領を名乗り「奥州四探題」と呼ばれる状態が続く。吉良氏は石塔氏の多賀城侵攻を退け畠山氏を蘆名氏のもとへ追いやり、一旦は畠山氏に攻められるも斯波氏の援軍で畠山氏を追い出し畠山氏は二本松の勢力として落ち着く。しかしその後の吉良氏と石塔氏はというと斯波氏に圧倒され一勢力に転落した。このように奥羽斯波氏が探題職を世襲し覇権を築いたのである。ここでの奥羽の斯波氏は総領家から独立したような存在だった。というのも斯波氏の総領家は奥州管領の家兼の兄である越前の高経なのだが、高経は観応の擾乱の時、足利直冬の京都侵攻の時とたびたび幕府に反乱を起こしていた。しかし分家である家兼はそれを無視したのだ。このように斯波家も分裂しており分家が大きな力を手にしたのであった。そして混乱の続いた奥州管領は1391年に鎌倉府に奥州・羽州の支配権を移譲することを足利義満に命じられる。これは南北朝の和議の前年のことであった。
こうして奥州はまた関東に組み込まれて東国の南北朝は終わったのであった。この後幕府と鎌倉府の対立が始まり鎌倉府は東北を幕府の任じた奥州探題の大崎氏に奪われ(といっても大崎氏の権力は小さい)永享の乱へつながるのだ。


奥州の豪族
本項では東北の豪族についてまとめておく。奥州では蝦夷平定後に入植者が領地を作った。また、南北朝時代には足利方の武家が東北に送られている。ここでは功を上げた武家、最終的な四管領の争いに参加した武家を中心にみていく。
・結城氏:元は小山氏の分家だが鎌倉時代に幕府の要職を占め下総で発展し倒幕時には分家の結城親光が新田義貞の鎌倉攻略に協力し東北武士で一番の功を上げ総領として認められた。しかし息子の結城親朝は足利方に寝返り総領の地位も下総に返還した。
・伊達氏:源頼朝の奥州合戦で功を上げた藤原朝宗が祖と言われている。南北朝時代には伊達行朝が北畠顕家に仕えた。
・南部氏:奥州合戦のころに甲斐国の南部氏が陸奥に入植し領地を広げた。南北朝期には南朝側を貫き合一のころに降伏した。
・斯波氏:足利家の一門の筆頭。東北での活動は奥州総大将に任じられた斯波家長が始めで、奥州に分家を立てた。その後も家兼が管領となり他家を破り戦国期まで大崎氏、最上氏など一門が力を持った。
・吉良氏:足利家の一門吉良家の分家。奥州管領になった吉良貞家は奥州の南朝勢力を壊滅させ功を上げたが貞家の死後斯波氏に敗北した上に内部分裂し没落。
・畠山氏:畠山高国が奥州管領として東北に行ったが後に斯波氏に敗れ二本松の一勢力に没落する。
・石塔氏:足利氏の庶流であり石塔義房が奥州総大将として奥州入りして地盤を作り義基が奥州管領を自称し四探題の争いをするが敗れ没落。
このように、東北には足利尊氏が多くの足利一門を送り込んだが結果的に内部で争い後までに残る大きな勢力を作れたのは分家が栄えた斯波氏だけだろう。また、この南北朝期に奥州入りした四探題は争う中ですでに国人の支持を得るために管領の権利を大きくせず国人に多くの権利を与えたので奥州では国人が強く、戦国時代に激しい争いが起きたのだ。

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