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其の一 中央王権の分裂
第1章 鎌倉幕府の滅亡
南北朝の動乱の直接の引き金を引いたのは、朝廷内における分裂であった。当時の皇室は大覚寺統と持明院統という2つの系統に分かれて、皇位を争っていた。争いは収まらず、結局幕府が仲裁に入り、両統から交互に天皇を出すことで妥協させたが(両統迭立の原則)、なおも譲位時期や約束違反などで混乱が続いた。幕府を滅ぼすに至る後醍醐天皇は大覚寺統の出身ではあったが、本命につなぐ中継ぎ程度の立場に過ぎなかった。彼は宋学の影響を強く受けて、天皇親政独裁を志向した。そのためには大覚寺統や他のライバルたちを退ける必要があり、障壁となる幕府を倒すことは彼にとって不可欠だった。
後醍醐は露骨に反幕的態度を取り、倒幕を目指したために、1321年、幕府は先手をうって失敗に終わらせた(正中の変)。後醍醐に罪が及ぶ所を、近臣の日野俊基・資朝らが全ての罪を被ったことで助かった。
2回目は1331年の元弘の変である。政治的に優位に立ちつつあった持明院統から力を取り戻そうと悪党や海賊を取りこんでいったが、幕府が察知。近臣吉田定房は状況を危ぶみ幕府に密告して事は露見した。後醍醐は笠置山へ移り抵抗を試みたが敗れ,隠岐に流罪となった。
後醍醐が都を離れた後、子の護良親王が反幕勢力を組織し抵抗を始めた。参加したのは北条権力に抑圧されてきた御家人や悪党らであり、特に楠木正成や赤松則村(円心)らのゲリラ戦術の影響は大きかった。幕府は足利高氏と名越高家を派遣したが、高家が戦死すると高氏は後醍醐への帰順を表明し、逆に六波羅探題を攻め滅ぼしてしまう。九州でも島津・少弐・大友の三守護が蜂起し、鎮西探題を滅ぼし、関東では源氏一族の新田義貞が蜂起した。義貞は幕府方を撃破し鎌倉を陥落させ、得宗北条高時以下は自害。鎌倉幕府は滅亡したのである。
得宗専制
御家人たちの不満が幕府に集まったのは、権力が北条氏の惣領である得宗に集中していたこと(得宗専制)にあったと言える。
モンゴル襲来時、幕府は戦時体制で権力を執権・北条時宗(得宗)に集中させた。これにより得宗の家臣である御内人の力も強まった。更に時宗が早逝したことで内管領平頼綱は得宗権力を強化し、御家人を代表する安達泰盛と対立。結果霜月騒動(1285年)により泰盛が滅ぼされてしまい、幕府は完全に御家人から得宗の手に移った。更に北条氏は国防強化のために知行国の大半を独占したので、ただでさえ生活の苦しい御家人は政治から排除され、幕府≒北条権力への不満を高めていくことになったのである。
悪党
悪党は鎌倉時代の支配体制に入りきらず、対抗していった人々の総称である。
例えば荘園や公領に地盤を持たず略奪を繰り返した連中も悪党であり、分割相続から単独相続へ移行する過程であぶれた庶子家も悪党であった。さらに荘園領主勢力から利権を奪っていこうとする地頭もまた「悪党」と呼ばれた。
さらに、悪党は「異形の者」であり土地に根ざしていない芸能民や海賊のように、封建体制からみると漂泊した存在だった。この時期一気に進んだ流通経済・資本経済の担い手と言えるかもしれない。
こうした悪党の力を使って倒幕へと導いたのが後醍醐天皇である。「三木一草」をはじめとする彼の近臣は、「悪党」出身が多かった。
第2章 建武の新政
都に返り咲いた後醍醐天皇は、「延喜・天暦の治にかえれ」を旗印に、徹底した天皇独裁・綸旨絶対主義を敷こうとした。慣例や法令よりも彼の命令が優先するのである。
特に、所領政策では顕著で、本領安堵・旧領回復を掲げて幕府裁定を否定しようとした。しかし基準が曖昧だったうえ、実務が多すぎて失敗。後醍醐の倫二絶対主義は少し後退し、雑訴決断所やが設けられた。ここには楠木正成ら後醍醐の近臣たちや貴族が任じられたが、あくまで天皇の恣意が通るようにしたり、権限が曖昧だったりして、政策を首尾一貫できず権威を失っていくことになった。
後醍醐は国司制度を強化し、自分の下で中央集権を図ろうとしたが、守護は残さざるを得なかった。さらに義良親王と北畠顕家を奥州多賀城へ、成良親王と足利直義を鎌倉へ、それぞれ下向させ奥州・関東地方全体を統括させることとしたが、これは完全な小幕府機構であった。要するに後醍醐の幕府を認めない方針は貫けていないのである。
建武政権最大の問題は、功臣の足利尊氏と護良親王に対立があったことであろう。護良親王はその過程で所領安堵を行っており、後醍醐の方針と矛盾する事態となっていた。政権の脅威であると見た尊氏追討を建言したが入れられず、逆に讒言によって捕縛され、直義の抑える鎌倉へ流されてしまった。その尊氏は政権の要職につかず、建武政権に不満を持つ武士の拠り所となり、脅威となっていった。
建武政権の崩壊は、1335年の中先代の乱がきっかけだった。北条高時遺児の時行が諏訪氏等と共に挙兵し、鎌倉を落としてしまったのである(この時脱出する直義によって護良は斬られた)。尊氏は征夷大将軍の称号を貰って鎌倉奪還に行こうとしたが、尊氏の自立を恐れる後醍醐はこれを制止。尊氏は勝手に軍を率いて下だり、北条を追い落とす。後醍醐は反逆と見なし、新田義貞に征討を命じた。
尊氏は挙兵し、京都に入ったが、後から追ってきた奥州の北畠顕家が西国におい落とす。尊氏は鞆の浦で持明院統の院宣を受けて朝敵の汚名を免れ、逆に勢力を立て直し京都に攻め上り政権を崩壊させた。なおも、後醍醐は吉野に移り京都の朝廷に対抗し南北朝が並び立つ事態に至ったのである。
南朝の戦略
南朝方は要人を各地方に送り込み、その地方で地盤固めをし、北朝方を駆逐していく方針を採った。
北陸では恒良親王・尊良親王と新田義貞がそれを行ったが、北朝方の高師泰によって壊滅させられて失敗。東国では北畠親房らがあたったが、全く地盤を作れないまま失敗。奥州では北畠顕家が地盤を築いたはいいが、都に攻め上る途中青野原(現在の関ヶ原)の戦いで足利方に勝ち切れず河内で戦死してしまうことになり、失敗した。直後に後醍醐も崩御(1339年)して南朝は勢いを失っていく。
つまり南朝方は地方に地盤を作れず、北朝に対し圧倒的不利な立場にあった。しかし観応の擾乱のために永らえ得ることになるのだ。
第3章 観応の擾乱
1338年、足利尊氏は北畠顕家・新田義貞という強敵を倒したことにより、満を持して征夷大将軍に任じられた。既に建武式目と呼ばれる幕府の基本法令は公布済みで、名実ともに足利幕府が誕生したことになる。
幕府初期、尊氏・直義の二頭体制が採られた。尊氏は武家の棟梁として主従的支配権を行使し、直義は政務一般を担当し領域的支配権を行使する、という役割分担であったと言われている。
しかし、次第に両者の中に対立が生まれる。特に、尊氏の腹心である執事高師直・侍所別当高師泰兄弟と直義の間の亀裂が大きかった。
対立が決定的となったのは、1348年師直が南朝方の有力武将楠木正行を四條畷で敗死させ、その勢いで吉野を焼き払い、南朝を賀名生へ没落させたときである。直義は養子直冬を西国へ下向させるとともに、尊氏に迫って師直を執事から解任させた。しかし師直は反撃に出て、直義の地位を尊氏嫡子義詮に譲らせ、彼の腹心を殺害した。出家した直義も黙ってはおらず、挙兵して南朝に形式的に降伏し、石塔・畠山・細川・山名・斯波・佐々木ら重臣の支持を受け尊氏方を破った。尊氏は仕方なく直義と和睦し、高師直・師泰は殺された。尊氏の反攻計画を察知した直義は東国に逃れ、西国の直冬、南朝方と合わせて、尊氏は挟まれる格好になった。尊氏は南朝に降伏し(正平一統)、敵を絞って直義を攻撃。直義を死に追いやった。
京を守る義詮は南朝と和議を望んだが、強硬路線の北畠親房がこれを拒否。信濃の宗良親王が尊氏を鎌倉から追い落とし、京都を北朝から奪い返すことに成功する。南朝方は北朝の光厳・光明・祟光の三上皇を連れ去り、北朝方に正統性における打撃を当たることになった。
しかし足利方が反撃に出ると、ひと月で鎌倉も京都も奪い返されてしまい、失敗に終わった。
なぜ二頭政治に分離したか
武家の棟梁は、武士団を統率し命令を出して従わせる代わりに、武士団の所領を安堵しなければならない。しかし同じ土地をめぐって対立があった場合、その対立者はどうするかと言えば、また別の棟梁に従い所領を安堵してもらえば良い。もちろん問題の解決にはなっていないし、解決方法は当事者や棟梁同士が戦うことしかない。
裁判は別である。中立な立場に立って事実を整理し、決を下す。決を下す者が棟梁と同一の場合、問題はややこしくなるだけで、当事者に判決は下せない。そこで、中立な立場に立って政治を行う者が必要である。尊氏は武家の棟梁なので判決者足り得ず、直義が補完したと解釈できる。この説明は将軍と執権や管領の関係にも当てはめることができるであろう。
観応の擾乱が拡大した理由
観応の擾乱は全国を巻き込んだが、それは師直と直義が社会的な分裂を代表していたからであると考えられる。
師直はその軍事力を背景に力で権威や秩序を打ち砕く存在であった。これは戦場で勲功を挙げのし上がり対新興武士団や、宗家と争い自立傾向を深める庶子家を代表した立場である。
一方、直義は秩序や権威を重んじて判決を下していかねばならない。これは旧来の武士団や寺社・貴族、庶子家を分離させたくない宗家を代表する立場だ。
つまり二人は当時の社会において存在した対立構造の象徴であり、社会的な対立構造が観応の擾乱をもたらしたとも言える。つまり観応の擾乱は起こるべくして起きた争いだったのである。